「ばかやろう」「どうなんだ、熊前!」
「私の中では、全日本というのはリーグで活躍したトップ選手が招集されるという頭があったから、見たことも会ったこともないような選手もいて、これがナショナルチームなのかとびっくりしました。でも、協会や葛和さんの考えには何か大きなプランでもあるのかな、と思っていましたけど」
セリエAのローマで活躍し、当時世界一のセンターといわれていた吉原知子でさえ、全日本から外された。27歳と、年齢がいっているというのが理由だった。
そもそも、ナショナルチームを編成するのに、年齢制限を設け実力のある選手を選抜しないという発想があったこと自体、不思議なチームだった。
葛和は24歳以下で高身長の選手を集めてみたものの、選手たちの意識の低さに愕然とした。日の丸を背負う覚悟はまるでなく、合宿の初日から「所属チームに戻りたい」と泣き出す選手もいた。甘くてもろい砂糖菓子のような全日本を象徴するのが、後に日本人離れしたスパイクの技術を身につける小田急(99年廃部)の熊前知加子だった。
「だって、その頃は自分のチームでも試合に出ていなくて、試合を撮影するビデオ係だったんですよ。どうして私がいきなり全日本に、と思うじゃないですか」
中学、高校とそれほど実績がなかった熊前は、小田急に入社してからも落ちこぼれだった。コンビの練習を先輩にお願いしても「下手だから嫌」と言われ、半べそをかきながら1人で壁打ちをしていた。しかし、練習だけは人一倍こなす。連日、午前2時くらいまで体育館で白球を追い、部屋に戻っては、練習日記もつけた。
3年目にしてやっとBチームに入れた。だが、その年に入った新人にすぐさまポジションを奪われる。あれほど練習して新人にも負けるんだと思うと、バレーを辞めたくなった。監督に辞意を伝えると怒られた。
「ばかやろう、俺はお前を全日本に入れるために寝るひまも惜しんで練習をつき合っているんだろう」
熊前にとって全日本は非現実的な世界だった。そのため、実際に葛和から招集されても、身の置きどころが分からない。熊前は練習中、葛和に度々怒鳴られた。「どうなんだ、熊前!」とつつかれてもただ身を硬直させるだけで、「はい」「いいえ」の返事すら出来なかった。
第一次合宿を終え、初めての海外遠征でポーランドと対戦した時である。2セットを日本が奪い、3セット目に熊前を投入した。当時はまだ15点を奪い合うサイドアウト制だったが、そのうちの11点を熊前がミスする。