公開された機密文書の中身
ただし、ロシアが本当にこうした核戦略を採用しているのかどうかは、今ひとつはっきりしない。軍事政策の指針である『ロシア連邦軍事ドクトリン』に記載された核使用基準にはエスカレーション抑止を匂わせる文言は見られないが、これらのドクトリンには公表されない部分があるとも言われるためである。
例えば2010年版『ロシア連邦軍事ドクトリン』が採択された際、国防省を代表してそのとりまとめ作業に当たったナゴヴィツィン副参謀総長(当時)によると、同文書には公開部分とは別に非公開部分が存在しており、後者には「戦略的抑止手段としての核兵器の使用」を含めた具体的な軍事力の運用に関する規定が記載されているという。
さらにメドヴェージェフ大統領(当時)はこれと同時に『核抑止の分野における2020年までのロシア連邦国家政策の基礎』を承認したが、その内容は非公表とされたため、エスカレーション抑止はこちらに盛り込まれたのではないかという憶測が生まれた。
一方、2017年にプーチン大統領が承認したロシア海軍の長期戦略文書『2030年までの期間における海軍活動の分野におけるロシア連邦国家政策の基礎』には、「軍事紛争がエスカレーションする場合には、非戦略核兵器を用いた力の行使に関する準備及び決意をデモンストレーションすることは実効的な抑止のファクターとなる」と述べられている。
ゴリツの言う2段階のエスカレーション抑止を想起するならば、ここでいう「デモンストレーション」が単なる威嚇のみを意味せず、限定的ながら実際に核使用に及ぶ事態が含まれていることは明らかであろう。
さらに2020年6月には、機密扱いであった『核抑止政策の基礎』の改訂版が突如として公開された。注目されるのは、その第1章において「軍事紛争が発生した場合の軍事活動のエスカレーション阻止並びにロシア連邦及び(又は)その同盟国に受入可能な条件での停止を保障する」ことが核抑止の目的の1つに数えられたことであろう。まさに「エスカレーション抑止」そのものである。
このようにしてみると、ロシアがエスカレーション抑止を核戦略に組み込んでいることは、まず疑いがないようにも思われる。米国もこの点については懸念を強めており、2017年には、在独米軍がロシアの限定核攻撃を受けたという想定で図上演習が行われたとされる(Kaplan 2020)。
また、トランプ政権下で策定された2018年版『核態勢見直し』(NPR2018)ではこうした事態に対応する手段として、トライデントⅡD ‒ 5潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)に低出力型核弾頭を搭載したバージョン(LYT)を開発する方針が決定された。
仮にロシアが「エスカレーション抑止」型核使用を行なった場合、米側もまた全面核戦争の危険を冒すことなくロシアに反撃するため、ごく小威力の核弾頭を搭載したミサイルで同程度の反撃を行うというものである。
だが、ロシアがしきりにエスカレーション抑止をちらつかせるのは心理戦であるという見方も根強い。ポーランド国際関係研究所(PISM)のヤツェク・ドゥルカレチが指摘するように、それがいかに限定的なものであったとしても、ひとたび核兵器を使用すれば、敵がどのような反応を示すのかはかなり不確実であると言わざるを得ないからである(Durkalec 2015)。
また、2020年版『核抑止政策の基礎』の内容を分析した米CSIS(戦略国際問題研究所)のオリガ・オライカーは、エスカレーション抑止についての言及が核抑止の全般的な性質について述べた第1章だけにおいてなされており、具体的な核使用基準を列挙した第3章には含まれなかったことに注目する。つまり、エスカレーション抑止とは「最悪の場合にはこういうことも起こりうる」というシナリオの1つに過ぎず、具体的な核使用戦略ではないという(Oliker 2020)。