「大野博士から妻に電話があった」
2月17日に、大野博士から妻に「お嬢さんのことで話があるので、あすグランドホテルまで来てほしい」と電話があった。妻が行くと、「お嬢さんにはいいなずけがいないか」と質問された。「そんなものはない」と答えると「それでは、妊娠ではなくポリープです」と言う。
妻が「婦人科医に診てもらいましょうか」と聞くと、「私も東京の医大を一番で出て、婦人科の経験もある」と主張した。2月21日、両親の要望で大野博士が小倉家を訪れて診察した。一審の判決文によれば、状況はこうだ。
大正12年1月、六女の妊娠せることを発見し、その犯行の暴露することを恐れ、これが隠蔽せんがため、ひそかに堕胎を企図し、同女の母に対し、六女の月経なきはポリープのためなるにより、これが手当てをなしやるべしと偽言し、同年2月21日、六女の居宅において、その嘱託を受けず、または承諾を受けずして恣(ほしいまま)に、約2寸5分(約7.6センチ)の長さに針金を二重に折り曲げたるものを同女の〇〇内に挿入した(1923年6月24日付読売朝刊)=記事原文のまま。
手記は「その翌々日の23日の晩に、私は偶然なことから、誠に悲しむべき今回の事件を発見した」と記している。
父親の手記と同じ「婦人生活」1923年5月号に載った、同誌編集部員と思われる「洲東生」の「死よりも辛(つら)き涙の一夜」という文章は、鎮之助が事実を確かめるために六女の胸を見たときに妊娠を悟り、「おまえは凌辱されたのだね?」と聞くと、六女は「凌辱って何です?」と問い返されたと書いている。その後、幾石医師の診察を受けて妊娠と中絶未遂が判明した。
「子どもは天から来る」
これまでの経過で誰もが不審に思うのは、それらの医師の行為を16~17歳だった当の六女がおかしいと思わなかったのかという点。それがこの事件の核心といえる。さすがに父も疑問だったのだろう。小倉鎮之助の手記は発覚後のことをこう書いている。
「おまえは一体、夫婦とはどういうものと思うか」と尋ねてみますと、娘の答えは「夫は外に働き、妻は家にいて働く」という答えでした。「それ以外にまだ何か説明はないか」といろいろな問いを起こして尋ねましても、娘は全然知らぬと申します。それならば「子どもはいかにして生まれるか?」と申しますと、娘は言下に「子どもは天から来る」という答えでした。
父親の悲痛なため息が聞こえるようだ。「私の家庭の読み物はおとぎ話の類か堅苦しい書物ばかりで、人情小説や婦人雑誌のごときも一切入れず、子どもが読みたがっても、お嫁に行った後にいくらでもお読みなさいと言って読ませず、その他の知識の取得方面は学校から入ってくるものばかりでした。芝居も活動(写真=映画)もあまり見せませんでした」と回想。