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 博士は横濱醫師界の重鎭(鎮) 風采堂々たる雄辨(弁)の人

 大野博士は横浜市医師会の重鎮で、2年前まで日本海員掖済会横浜病院長を務め、肺結核病理学者として知られる。熊本県飽託郡清水村(現熊本市)字津の浦の熊本藩士の家に生まれ、第五高等(学校=現熊本大)を経て明治34(1901)年、東大医科を出て、京大内科助手、京都市立日吉病院医員、研究助手に転じた後、フィリピン総督府国立研究所部長に招かれた。大正3(1914)年、帰朝して掖済会横浜病院長となり、松下禎二博士らの指導・援助により大正6(1917)年、博士号を授与された。風采堂々たる雄弁家で、目下自宅で開業している。

 東朝と東日には、六女を診察した幾石医師の談話が載っている。

 東朝は「醫師の尊嚴(厳)上 大なる制裁を」の見出し。記事の中で同医師は診断の内容は秘密としたうえで「もしこの事実によって社会的に批判されたり、法廷に立つ場合には、医師として重大な責任により、医師の尊厳を冒瀆するものに大いに制裁を加える必要があると思います」と語っている。

「この病気は横浜の大野博士に診てもらうのが一番いい」

 父の小倉鎮之助は、勇気があるというべきか、事件発覚から間もなく、雑誌「婦人世界」1923年5月号に手記を寄せている。

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「不幸の娘を純潔に生かすまで 満幅の信頼を捧げた醫学博士に病める愛嬢を凌辱され悲哀と憤恨に苦悶した父親の涙の告白」というタイトル。読売、東日の記事にない部分をピックアップしてみる。

「婦人世界」に掲載された父親の手記

 約4年前、妊娠中の二女が肋膜炎にかかり、2、3の医者に診てもらったがはかばかしくなかった。長年懇意にしている医師に相談すると、「この病気は横浜の大野博士に診てもらうのが一番いい」と言われた。

 そこで大野博士の診断を受けたところ、病状が改善。以後、満幅の信頼を置くようになったという。確かに、当時の医学雑誌を見ると、肺結核を中心に感染症に関する学術論文やフィリピンの衛生事情など、「大野禧一」名義の文章が多数掲載されている。エッセーも多く、“筆も立つ”医学者だったようだ。

 事件発覚から6年前の1917年1月28日付読売朝刊には、大野博士が「横浜肺結核療養所長に内定した」というニュースが載っている。結核に関しては相当の権威だったといえる。知人の医師が名前を挙げたのも当然だったかもしれない。

 手記で父親は「学問的にも人間的にも信頼していたので、常に家族には『医師の言うことすることは絶対に信頼せよ、絶対に服従せよ』と言っていた。それがあだになったように思う」と書いている。

 しかし、六女の肺尖カタルは大野博士の治療でもなかなか病状が改善しなかった。手記は事件の核心に近づいていく。

 昨年(1922年)10月ごろ、大野博士は六女に注射をしてから「あなたは冷え性です。気管をよくするためには冷え性から直さなければならず、それには別の薬を用いなければなりません。薬局で薬をもらって自分で用いなさい」と言った。