しかし、薬局に行っても、飲み薬だけで、それらしい物はくれなかった。次の治療の時、「あの薬を用いましたか」と聞かれ「薬局でくれなかった」と答えると、博士は「それでは私が用いてあげましょう」と言って、手ずから治療してくれた。
六女に「なぜその時拒まなかったのか」とただすと「私は常々お父さんから、お医者さんの言いつけは拒むなと聞かされておりましたし、また別に恥ずかしいこととも思いませんでした」という答えだった。六女はそれ以前にも浣腸を受けたことがあり、母が素肌で手術を受けたのを見たこともあったので、それらと同じで少しも恥ずかしいことではないと思って治療を受けていたものとみえる。
家庭医は「大野さんは新しい治療法をする…」
さらに手記は「11月末のこと」として次のように書いている。
六女がいつもの通り治療に参りますと、博士は「あなたの胸の悪いのも、体の冷えるのも、みんな月経不順が原因をしているのですから、座薬をお用いなさい」と言って座薬を用いてくださいました。その座薬を用いてくださった時の状態は、最初の時には、まず本人の肩にいつもの通り注射をしてから、座らせて治療をなし、2度目に行った時には、横にさせて治療をしたということです。
そして六女が帰ってきて、いろいろ治療の模様を妻に話しましたので、妻も念のため家庭医に聞いてみますと、家庭医もまさかそんなこととは知りませんから「大野さんはなかなか新しい治療法をなさるから、そういうこともあるのでしょう」と言われたので、妻もさして気にも止めませんでした。すると、たしか12月25~26日のことだったと思いますが、六女が治療から帰ってきて「座薬はあまり苦しいから、もうやめようと思う」としきりに妻に訴えますので、妻もその気になり、それからは普通の治療だけ受けることになりました。
この記述では、性的暴行の有無さえ分からないが、一審横浜地裁と大審院(現在の最高裁)の判決はいずれも「11月下旬から12月下旬」としている。その後についても父親の手記を見よう。
1923年に入って1月末か2月の初め、妻が六女の体を心配して「順調にあるべきはずの月経がない」と言うので、大野博士に聞かせると「肝油ドロップを1日に5~6粒ずつ、1週間ぐらい続けてごらんなさい」という返事。
その後、六女が治療に行くと、「お母さんはあなたを婦人科に診せようと言うが、婦人科医はこういう機械を使うのですよ」と恐ろしい機械を見せ「あなたのようなお嬢さんが用いると害になります」と言われたそうだ。
私の家では、子どもを外出させるのにも、厳格すぎるほど注意している。少し遅くなれば、私自身が車で迎えにいくぐらい。暮れやすい秋から冬へかけてはなおさら注意した。
そして、事実と博士の正体が明らかになる日が来る。