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77年、運命の夏

「ファンの人はいい時のことを記憶していてつらい」沢村栄治が語った戦時下のアスリートの苦悩

「ファンの人はいい時のことを記憶していてつらい」沢村栄治が語った戦時下のアスリートの苦悩

特別対談・沢村栄治&笹崎僙 #2

note

沢村 慣れてしまうのですね。熱しやすく冷めやすいのが欠点だ。

笹崎 その点田舎に行くほどいいですね。農村の人は忘れないで、慰問文、慰問袋を送ってよこします。

〈戦地での慰問やファンからの手紙に感激したという二人。やがて話は、カムバックした時の苦労に移っていく〉

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笹崎 僕らは多少自分が病院生活をやって来たということがいつも心にあったから、自分の肉体に自信があっても、やはり心の中に弱くなったのではないかという不安があったのですね。しかし、戦場に一度捨てた命を拳闘の方で頑張ろうという真剣な気持がずいぶん強いです。だから帰って来てから、人一倍の練習をやり通すつもりです。朝は五時頃から練習しています。

笹崎 三、四日経ってからすぐ始めました。

ファンの人は、調子の良い時のことばかり記憶していて、とてもつらいです。

沢村 僕は以前のことは全部忘れることがいいと思って、新しく出発しようと思ってやっているのです。以前のことは以前で、アメリカに行ったとか、いろいろな華やかな生活があったとかいう気持でいたら失敗するのではないかと思うのです。

 それで人一倍練習はしたいのですが、それにはやはり自分の体を以前の体に戻してからやろうと思っております。向うでマラリヤをやっておりますし、わずかの間であったが、人間としてこれ以上耐えられんというところまで行った体ですから、筋肉労働をするまでには、自分の体を整えてからやった方がいいと思っております。

 野球というものも、片手でボールを投げてしまえばいいと思えばそれまでですが、やはり足の先から順々にやって行かなければなりません。ランニングをして腰を強くするとか、いろいろ基礎練習をしてから初めてボールを持って投げるので、無理をして一時線香花火のようによくても、長続きしません。ゆっくり徐々にやって行くつもりです。まあ初年兵からやり直すつもりです。

笹崎 帰ってから二度試合をやりましたが、自分としては出征前と少しも変らないと思っているのに、ファンに聞きますと、前のようなコンディションになっていないと言われます。

沢村 ファンの人は、調子の良い時のことばかり記憶していて、悪い時のことはみんな忘れているので、とてもつらいです。