17日で作った兵隊用の線路が使われ続けた理由
17日でつくった線路など安全性がいかにも怪しいものだが、切迫した時代背景を考えればやむを得ない。それにこの路線を走るのは大陸に出兵する兵隊たちだけで、一般のお客の乗車は想定されていなかった。
かくして日清戦争において軍事輸送で活躍することになったが、戦後改めて改修、宇品線として一般のお客を乗せて営業を開始することになる。
それでもこの路線そのものはあくまでも陸軍省のもとの軍事路線であることが前提であり、宇品港には陸軍輸送本部も置かれることになった。
輸送本部はその後も一貫して兵員輸送の要を担った部局で、戦争が勃発するたびに宇品線は一般利用が停止されて軍事輸送専門になることを繰り返す。つまり、宇品線はたびたび大陸で激戦に身を投じてきた日本陸軍の精鋭・第5師団の出兵時の輸送路線という存在がほとんどすべてであったのだ。
宇品港の傍らには、今も宇品線の線路が…
もちろんそういった役割は戦争とともに終わる。宇品港も軍港としての機能を失い、沿線に設けられた軍事施設も姿を消した。それがいっとき移転してきた県庁や官公庁、住宅などに変わっていったが、本来の役割を失った宇品線に立つ瀬はない。
多かれ少なかれ、国内の鉄道は戦前まで軍事輸送に身をやつしてきた経験を持つし、それ自体が罪だとはいえない。しかし、宇品線に関してはそれが特に際立っていたのだ。そうした背景と、戦後の交通事情の変化が相まって、宇品線の命運が尽きたといっていいだろう。
それでも、ひとときの間広島市東部の市街地化を支えていた路線であることは紛れもない事実だ。
沿線の人々の間では宇品線への愛着はひときわだったともいう。やりようによっては、お客を減らさずにいまも現役で活躍しているもうひとつの世界線もあったかもしれない。宇品港の傍ら、兵員たちが出港していった港の脇の公園に宇品線の線路が誇らしげに鎮座している。
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