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「これだけでは説明できない背景が、宇品線にはあった」
こうした戦後の宇品線の歩みを見ると、確かに市街地の中にありながらお客がほとんどいなかったのであろうことがうかがえる。
その理由のひとつに、宇品港(広島港)と広島駅を結ぶという宇品線とまったく同じ役割を広電の宇品線や路線バスが担うようになり、競争相手としてあまりに強力だったということがある。
広島の中心は広島駅ではなく紙屋町や八丁堀。そちらに直接向かわず本数も少ない宇品線は分が悪かったのだろう。それに広島は自動車メーカーマツダのお膝元のクルマ社会だ。
ただ、これだけでは説明できない背景が、宇品線にはあった。それは、宇品線の誕生の経緯とも関係している。そう、軍事輸送である。
宇品線のルーツは、1894年6月に開業した広島駅と宇品港を結ぶ軍事路線にある。ちょうど山陽鉄道が広島駅に達した直後のことで、さらに日清戦争の開戦を間近に控えて緊迫した時局。
陸軍第5師団が置かれていた軍都の広島は、大陸に兵員を送り出す拠点となることが期待された。そこで広島駅から宇品港までの兵員輸送路線を建設することになったのである。
具体的には陸軍省が山陽鉄道に軍用線の敷設を指示し、それに応じて山陽鉄道がわずか17日間の突貫工事で完成させたという。