女流棋士になれて危機感を失い…「本当に大馬鹿でした」
――昇級がかかった白玲戦の最終局、石高澄恵女流二段戦には良い状態で臨めたのでしょうか。
田中 一時期は毎日のようにVSや研究会をしていたのですが、それで他棋戦の対局の日に体調を崩してしまって。それでは本末転倒だと学びました。対局の前日には移動は避けてネット将棋や詰め将棋をするように。
ただ、石高戦は大苦戦。予想外の都成流をされて作戦負けになり、「いやー」とぼやきたくなりました。二転三転の末、勝つことができホッと。やはり「このチャンスを逃したら私は一生昇級できない。勝たなければ」という気持ちはありました。張り詰めていた気持ちから解放され、「眠れない夜にサヨナラ」という感じです(笑)。
――一度は女流棋士資格を失った田中先生が、再び研修会を抜けて女流棋士になり、D級の一番下から1期で昇級を決めたことは話題になりました。そのことについてはどう思っていますか。
田中 女流3級から落ちてしまったことはまったく誇れることではありません。落ちこぼれなので結果を出して見返したい気持ちはあって、それが少しはできたかも。でも、ここで満足してはダメです。油断したらまたDに落ちてしまう。女流3級の1年目は、仮免許でも女流棋士になれたことが嬉しくて、危機感を失ってしまった。本当に大馬鹿でした。その失敗を繰り返したくないと強く思っています。
――ところで、公式戦で勝った後と負けた後は、それぞれどのように過ごしていますか。
田中 東京での対局前には鳩森神社でお参りして、勝った時だけ帰りにお礼参りをしてお賽銭も多めに入れます(笑)。勝っても負けても対局後は道場に行って、強い方と指したり、棋譜並べをしたり勉強します。帰って寝てしまうのはもったいなくて。
小学校4年、「週1の習い事という感じ」で始めた将棋
――対局後も勉強されるのは熱心ですね。さて、将棋を始めてからこれまでのことも教えて下さい。田中先生は一度目の研修会入会も19歳と遅めです。将棋を始めたのも遅かったのでしょうか。
田中 小学校4年生ですから、すごく遅いわけではないですね。叔父に将棋を教えてもらい、負けたのが悔しくて、自宅のある金沢市内の鈴木英春先生の将棋教室に通い始めました。将棋漬けではなく、週に1回の習い事という感じ。教室の大先輩には井道千尋女流二段がいます。金沢の大会に来てくれたこともあり、女流棋士という存在は知っていました。私は弱いのに指導対局に平手で挑んで負け、大泣きした記憶があります。
小学校の卒業文集には将来の夢を「女流棋士」と書いたのですが、級位者のままで弱いし、どうすればなれるかも分かっていないし、野球好きな子が「プロ野球選手」と書くのと同じレベルでした。