――中学、高校では中学選抜、高校選手権といった全国大会の女子の部の石川県代表になっていますね。
田中 石川県は当時、中学高校とも女子の代表枠が2枠以上あり、同じ教室の1つ年下の女の子とともに全国大会に出場したのは良い思い出です。ただ、地方で将棋を指す女の子が少ないですから、男子と違って代表になるのは難しくありませんでした。高校選手権では良くて全国ベスト16ぐらいの成績。有名な強い子には遠く及ばない実力でした。
北村桂香女流初段が優勝していて、将棋に取り組む姿勢や志が違うなと思ったのを覚えています。その頃、上位に入っていたのは、他に脇田菜々子女流初段や、山口絵美菜さん。私は女流棋士になろうとも考えておらず、中学では剣道部、高校では茶道部と部活もやって、将棋はエンジョイ勢だったのです。もし、あの頃に戻れるのであれば、部活はしないで将棋に集中します。
デパ地下でバイトして、研修会の入会試験を受験
――それがなぜ、女流棋士を目指して研修会に入ることになったのでしょう。
田中 ずっと教室でお世話になっていた英春先生に「女流棋士になって石川県で普及活動をしてくれないか」と言われ、すっかりその気になってしまいました。ただ、研修会や女流棋士のレベルが分かる今にして思うと、その時の18歳という年齢とアマ二段くらいだった棋力を考えると無謀だと思います。
金沢の短大の1年生だった時、9歳年下の野原未蘭女流初段が隣県の富山から同じ英春先生の教室に入ってきました。野原さんはプロになるという明確な意思を持っていたし周りに期待もされ、富山では「早く女流棋士になって」なんて言われていました。私はそんなこと言われず、皆さん無理だと思っていたのではないかと。
それからは野原さんと一緒に英春先生の車に乗せてもらい、東京や大阪のマイナビチャレンジマッチやリコー杯女流王座戦アマ予選などレベルの高い女性アマの大会に遠征するようになりました。
――研修会に入会したのは短大の2年生の春、19歳の時ですね。
田中 はい。両親に「女流棋士になりたい、そのために大阪の研修会に通いたい」と話したら「なれるわけがない」と反対されました。それで、自分でバイトしたお金で通うからと説得したのです。短大入学後に金沢のデパ地下のとんかつ屋さんでアルバイトをして、お金をためて研修会の入会試験を受けました。