後のない自分を気遣ってくれた、棋士や女流棋士の方々
――女流棋士3級の資格を得られるC1に上がったのは2018年の5月ですから丸4年研修会に在籍していたわけですね。
田中 はい。会社員生活も4年目に入った23歳の時でした。会社には「女流棋士になるので辞めます」と伝えて退職しました。もう会社に行かなくていいと本当に嬉しかった。それで舞い上がってしまいました。
負けが込み、2年目に環境を変えようと関東に移籍し、東京で1人暮らしを始めました。今思えば浅い考えでした。生活費を考えると対局以外にも教室とか指導とかいろいろ仕事をしないといけない。もっと将棋の勉強もしなくてはいけないしバランスが難しかった。あと1勝で女流2級になれるチャンスを何度も逃し、辛くて、その頃のことは思い出したくないです。ただ、たくさんの方が女流2級に上がらなくては資格を失う2年の期限が迫っている私を気遣ってくれました。
――棋士や女流棋士が声をかけてくれたりもしたのですか?
田中 そうですね。棋士の先生で覚えているのは先崎学九段です。棋樂という先崎先生ご夫妻の囲碁将棋サロンで将棋を教えてくださいました。「将棋は相手を屈服させないといけない。お前はちょっと人が良過ぎる」とか、「俺は、お前みたいな落ちこぼれは好きなんだ」と言って応援してくれました。あるときは色紙を渡され、「これに『絶対女流2級になる』と書け」と言われて書きました。その色紙は今でも家にあります。他には将棋サロン荻窪でご一緒していた豊川孝弘七段にも将棋を教えていただいたり、励ましの言葉をかけていただきました。
――その時は、期限までに女流2級になることはできなかったですが、結果として女流棋士2級になれたわけですね。
田中 はい。加藤圭女流二段に「2級になるまではここに通いなよ」と大野八一雄七段の教室に誘ってもらったのも、女流3級の終わりが近づいていた頃でした。せっかく勉強する場を紹介してくれたのに、精神的にかなりまずい状態になってあまり通うことができませんでした。ボーっとしているというか、もともとは方向音痴ではないのに、教室への道に迷い、さまよってしまったり……。最後のチャンスがなくなる前から、もうダメだという気持ちになってしまいました。
――女流3級時代の最後となった宮宗紫野女流二段との対局は、中座して涙をぬぐわれるなど相当辛そうだったと見ていた女流棋士の方が書かれていました。
田中 早い時点で不利になってしまい、これで最後なんだなと思いながら指しました。終局して対局室のある4階から降りようとしたとき、同じタイミングで対局を終えた圭さんにばったり。「どうだった?」と聞かれ「ダメでした」と答えたのを覚えています。
写真=杉山秀樹/文藝春秋
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