このナゾは、中山道を歩いてみたらすぐに解決した。古い地図にあるような駅前と中山道を結ぶ道。これはいまも健在なのだ。その名もさくら草通りといい、クルマが進入できない歩行者道路になっている。中山道からまっすぐ駅に向かって伸びているのだが、そのまま駅前に出ることはなく、浦和コルソのビルに遮られる形で途切れている。
すなわち、駅前からまっすぐ中山道につながっていた目抜き通りは、駅前再開発で浦和コルソに遮られて途切れる形となり、逆にそれまでは駅まで達していなかった県庁通りを駅まで延伸する形でそれに置き換えた。そうしていまの浦和の形が完成したのである。
こうしたところから考えると、浦和の町は宿場町のあった中山道を軸に、県庁は県庁で、駅は駅で、それぞれ別の道で結ばれていたということになる。
何でこんなことに…?
ここで浦和に県庁が置かれたのはいつのことなのか、再び歴史を振り返ってみよう。
浦和に県庁が置かれたのは1869年のこと。鉄道が通るよりもだいぶ前のことだ。実は、1869年1月には浦和ではなく大宮県が設置されている。ただ、このときには県庁所在地は東京の馬喰町に置かれた。
それを見て、浦和の町の人たちが熱心に県庁の誘致運動を展開。その結果、わずか8か月後の1869年9月に大宮県が浦和県に改称され、県庁舎も浦和に置かれることになった。それがいまの、埼玉県庁である。
なお、浦和県は1871年に忍県・岩槻県と合併して埼玉県が成立するが、そのときにもいったんは岩槻に県庁を置く計画があった。浦和はそれもなんとか乗り越えて、引き続き県庁所在地にとどまった。
こうして近代の夜明けとともに、浦和はいち早く周辺地域の中心的な都市となり、現在のさいたま市域でいちばん最初に鉄道の駅が設けられるという栄誉に浴すことになったのだ。
浦和に県庁が置かれてから駅が開業するまでは、実に14年。それだけのタイムラグがあり、さらに間に大動脈・中山道が南北に通っているとなれば、駅と県庁がちぐはぐに中山道までの道を延ばしたというのもうなずけるところであろう。