昇段を逃した森は、そのまま将棋会館近くの理容店の扉を開けた。
「丸刈りにしてください」
坊主頭になった森は、次の例会で3連勝し、初段昇段を決めてみせたのだった。
蛸島女流六段「私に負けたら坊主というルールが存在していたようだった」
当時、奨励会のなかで「女ごときに負けるのは大きな恥」というムードがあったことは事実だったようである。蛸島女流六段も、後から知った話として「私に負けたら坊主になる、罰金を払うというルールが奨励会員の間に存在していたようだった」と述懐している。
「私自身は、そうしたルールの存在を知りませんでした。ですからルールに従って坊主にしたわけではありません。すべては自分の油断を反省し、気を引き締めるためでした。坊主にしてからは誰とも話さず、次の奨励会でも絶対に勝つという気迫を全面に出していましたので、特に坊主にした理由を周囲から聞かれた記憶はないんですね。だいたい、蛸島さんに負けている奨励会員はたくさんいるはずなのに、当時、坊主になった人を見ていないですよ。私だけじゃないですか、本当に頭を丸めたのは(笑)」
余談になるが、この「決意の剃髪」は14年後、将棋界最高峰のタイトル戦である名人戦(第36期)で再現される。
時の中原誠名人への挑戦権を得た森八段(当時)は、第一局の前夜祭を抜け出し、会場となっていた仙台ホテル近くの理容店に直行。流行系のパーマをかけていた髪をツルツルに剃り上げ、翌朝、青々とした頭で対局室に登場した。いまもファンに語り継がれる「剃髪の挑戦」である。
立会人の花村元司九段、そして大山康晴・将棋連盟会長、さらに主催・毎日新聞の観戦記担当だった山口瞳氏(作家)と「坊主揃い」の現場は異様な雰囲気に包まれ、大山会長は「坊主が2人できちゃった」(森と花村を指す)、花村九段は「私に断りなしに剃っちゃいけない」と息の合ったコメントを繰り出す。
そして大山会長は、花村九段と山口瞳氏を見ながら、こう締めたという。
「毛のある人はいいんですよ。我々には、それができない!」
毛髪豊かな中原名人にどこまで動揺があったのかは分からないが、この一局目は挑戦者・森八段の快勝譜となった。