こうして、只見線運行再開のお祝いムードが高まっている町ではあるが、何か足りないものがあるように感じるのは私だけだろうか。
なぜ何か足りない、と感じてしまうのだろうか?
どんな水害だったのか、なぜ鉄路が寸断されたのかなどという根本的な話が、住民の口からはあまり出てこないのだ。
行政も祝賀行事一色で、災害の語り継ぎ事業をセットにして行っているわけではない。
只見駅から約3.5km離れた八木沢集落には、そうした只見町内に珍しく、あの日を忘れないための碑が建てられている。
「八木沢区民一同」と記された碑の裏面には、2011年7月に何が起きたのか、生々しく記されている。
「七月二十七日から三十日までの期間雨量七百十一・五ミリメートルの豪雨と、上流にある田子倉ダム・奥只見ダムの放流による只見川の氾濫で八木沢地区は壊滅的な被害を受けた。二十九日午後、伊南川・叶津川(共に只見川の支流、筆者注釈)の氾濫と田子倉ダム放流により、只見川堤防越流集落内浸水。身に危険を感じた人は、知人宅に避難した。三十日午前二時以降、奥只見ダムの放流水が合流し、滝ダムの放流能力をはるかに超える濁流が八木沢地区を津波の様になって襲ってきた。二階で恐怖に怯え朝を迎えた人達は、変わり果てた光景を見て失望の窮地に陥る。流失一戸、大規模半壊八戸内取壊し五戸、半壊十一戸、床上浸水一戸、床下浸水二戸、田畑の流失土砂堆積七・五ヘクタール、五礼橋国道側町道陥没、只見川・叶津川堤防決壊流出。国の激甚災害の指定を受け六億二千九百万円の巨費が投じられた。県・町・ボランティアの人々の応援を受けると共に、義援金、見舞金のご厚情、ご支援を受け復旧した。
再びこの様な災害に遭う事の無いよう念じ、後世に伝える為にこの記念碑を建設する。」
只見町を貫く只見川は特殊な川だ。10ものダムが階段状に建設されているが、全て発電用で治水機能はない。このため日頃から満々と水を溜めており、「豪雨には弱かった」と指摘する住民もいる。隣の金山町では、ダムに溜まった土砂を取り除かなかったのが災害を酷くしたとして、一部住民がダムを所有する電源開発と東北電力を相手取り、損害賠償を求める訴えを起こしたほどだ。
「あの日は酷いものだったよ。流された家が…」
碑を撮影していると、八木沢地区に住む長谷部幹男さん(74)に声を掛けられた。「あの日は酷いものだったよ。流された家が国道を渡ってしまったほどだったんです。取り残された人はヘリコプターなどで救助されました。約25軒しかないのに、家を再建せずに出て行った人もいます」と寂しそうに語る。