八木沢地区の長谷部さんは「災害の恐ろしさ、悲惨さ、そして只見線を含めた復旧にどれだけ苦労してきたか、語り継ぐ必要があると思います。でも、この地区はなぜか、それが弱いのです。歴史をさかのぼれば、明治維新の時にも似たことがありました。戊辰戦争で長岡城(新潟県)が西軍に落とされ、司馬遼太郎さんの小説『峠』で有名になった長岡藩の家老・河井継之助も、只見に逃げてきて命を落としました。当時は住民が食糧を出し合って助けるなど様々なことがあったのに、長老達が語り継がなかったのでほとんど伝わっていません。歴史や災害には語り部が必要なのです」と力説する。
どうして語り継がれなかったのだろう。これについては、只見がすぐに敵の新政府軍に占領され、「戦争のことは口に出すな」と言われたためだという話を、町内の観光施設の案内で聞いた。只見を含む会津地方では「朝敵となった会津は、明治政府に長らく敵視されて冷遇された」と言われている。
さすがに時代は変わったが、「今は電源地区として生きているので、只見川やダムが関係した水害については語りにくくなった」と話す人もいる。
秘境と首都は対極の存在なのか。直結しているのではないか
今回の取材では多くの人に出会ったが、その中でもう一人、語り継ぎの重要性を口にする人がいた。県からボランティアの「只見線地域コーディネーター」に任命され、土日祝日に只見線内で特産品の販売をしたり、案内をしたりする活動をしている酒井治子さん(41)=只見町在住=だ。
酒井さんは「只見線は不要」という議論が起きた時に辛かった。「先祖から大切に受け継ぎ、暮らしてきた土地なのに、過疎地区で生きていくこと自体が無駄と言われているように感じました。只見の全てが否定されているようで悲しかった」と話す。
ただし、「只見川で発電された電力は、全体からしたらわずかかもしれませんが、東京電力のエリアに送られていて、首都圏の暮らしを支えてきた」という自負もあった。
結局、どちらかが一方的に支えているわけではなく、どちらかが一方的にお荷物であるわけでもない。そう考えていくと、只見川の水害や、只見線の存続は、只見地区だけの問題ではないような気がする。
「単に運行が再開されて良かったねというだけでなく、只見線からは日本の様々な課題が見えてきます。私はこれからも車内で案内をしながら、鉄道のことや、災害のこと、只見地区のことを伝えていきたい」と、酒井さんは意気込む。
秘境と首都は対極の存在なのか。むしろ直結している部分が多いのではあるまいか。
日本を見つめ直し、考え直すためにも、只見線に乗りに行きませんか。
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