原点となった「立場宣言」
鳥取市の中央部、千代川沿いの町に生まれた宮部は地元の小、中学校に通った。宮部によると、彼の町には、生まれ育った地域と隣接して被差別部落があったという。
「僕の町は、1969年の同和対策事業の地区指定の際、部落も、そうでない地域も含めて町ごと、(事業の対象となる)同和地区に指定されたんです。当時は、その間に境界も引かれておらず、子供はもちろん、大人ですら(どこが部落かを)意識していなかった。だから当然のことながら地元では差別などなかった。
もちろん、戦前、祖父の時代には差別があり、(部落内外の)対立もあったようですが、少なくとも父親の時代には、そんなことは意識していなかった。また、僕が地元にいた時期はすでに同対事業で部落の(住環境や生活環境は)改良済みで、おまけにバブル景気の最盛期だったので、部落の土建業者は潤っていて、立派な御殿ばかりだった。だから、学校でいくら『部落は差別されてきた』、『貧しかった』といわれても、まったく実感とかけ離れていた。
「もう、そういう授業には出たくない」泣きながら訴える子も
その後も、僕の小学校では、部落から通う同級生が『立場宣言』をさせられていた。しかし、先生からは、彼らがそうするに至った経緯などについての説明はまったくなく、違和感だけが残りました。この同和教育に対する違和感が、同和問題に興味を持つ原点になったのです」
立場宣言とは、被差別者自らが集団に向けて、自分の「社会的立場」を明らかにすることだ。「部落民宣言」と呼ばれることもある。また、その際、単に自らが被差別の立場にあることを告げるだけでなく、そのことによって、これまで、どんな思いを抱いて生きてきたかなどの思いが語られる場合が多い。部落解放同盟は1970年代以降、部落の子供や若者たちに、この「立場宣言」を積極的に推奨してきた。
「中学校に入ってからも同和教育は続き、解放運動の歴史についても学びました。高校に入ってからは、部落出身の女の子が先生に『もう、そういう(部落問題を扱う)授業には出たくない』と泣きながら訴えているところも見ました。それで、こんな教育を一体、誰が、何のためにやらせているんだろうと疑問に思い、高校時代から図書館に通って調べ始めたんです」
(文中敬称略)
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西岡研介氏による「部落解放同盟の研究 最終回」全文は、月刊「文藝春秋」2022年11月号、および「文藝春秋 電子版」に掲載しています。
同和教育が生んだ「差別の商人」