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大きなビルの建ち並びから一気に小さな店の賑わいに…どうして「こういう町」になった?

 こうして秋田の町を歩くと、駅前から久保田城跡の南側、旭川に至るまでには比較的大きな商業ビルやホテルなどが建ち並び、旭川を渡ると目抜き通りである竿燈大通りを別にすれば、小さな店が細かいところに肩を寄せ合う町に一変するということがわかる。

 これは、近世以来の久保田城下の町の構造の名残といっていい。

 

 佐竹氏20万石の久保田藩時代から、旭川を挟んで町はまったく別のコントラストを持っていた。旭川の東側(つまり秋田駅の近く)は藩士たちが暮らすいわば武家屋敷が建ち並ぶ。反対に旭川の西側は羽州街道が貫く町人たちの町だった。

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 武家町は“内町”、町人の町は“外町”とされていたという。旭川の東西をまっすぐに結ぶ道がいまもないのは、町人の暮らす町から武家町を一望できないような区割りがされていたことに遠因がある。

 そして明治以降も町人の町はそのまま商業地として発展していった。いっぽう、武家屋敷の跡地には1898年に陸軍歩兵第十七連隊が置かれている。比較的広い敷地を持っていた武家地は明治以後まとめて軍用地に転換されることが多かったが、秋田においても例外ではなかった。町の発展のために、市を挙げて誘致活動に取り組んだ結果だったようだ。

 

市街地の東の外れに出来た「秋田」

 次いで秋田駅が開業する。1902年のことだ。秋田の町としては、市街地の西側を通すように要望したという。というのも、すでに西側には町人の町が確立されており、将来の商工業の発展のためには駅と商業地が近接していることが必要だと考えたのだ。

 だが、実際には秋田駅は市街地の東の外れ、“外町”の市街地からは旭川と陸軍の連隊を隔てた場所に設けられることになった。単純に建設費が安く済むことや、雄物川氾濫時に被害を受けにくいことが理由だった。

 いずれにしても秋田駅の開業によって、秋田の町は鉄道を介して東京と結ばれることになった。

 開通当初は上野~秋田間を直通する列車は1日1往復、実に23時間もかかる長旅だったが、それまでは徒歩で盛岡か北上に出てから汽車に乗り換えていたのだから、鉄道開業の効果はあまりに劇的だったのだ。

 引き換えに雄物川舟運やかつて北廻り航路で栄えた土崎港が衰退するというできごともあったが、秋田の町の発展に鉄道が大きく寄与したことは疑う余地がない。