最も神聖なユダヤ暦の「贖罪(しょくざい)の日」、ヨム・キプールにあたる1973年10月6日、エジプトとシリアのアラブ連合軍が、イスラエル軍の占領したゴラン高原に砲弾を撃ち込んだ。それを機に第4次中東戦争が世界経済を襲った。
第一次石油危機とともに、文字通り燎原(りょうげん)の火のごとく、物価の高騰の波が押し寄せた。石油危機は、70年大阪万博に沸いた日本人の浮かれ気分を吹っ飛ばし、国民はパニックに陥った。ガソリン燃料はもとよりプラスティックやパルプといった石油に頼るあらゆる物資の枯渇が囁(ささや)かれ、庶民はスーパーに行列してトイレットペーパーを買い求めた。
オイルショックのせいで、とりわけ日本の中小企業が軒並み大きなダメージを食らった。材料費の高騰で製造業が資金繰りに窮し、立ち直れない会社が続出した。
不況になればなるほど、銀行や信用金庫といった従来の金融機関は助けてくれない。そこで中小の会社経営者が街の金融業者に飛び込んだ。
オイルショックでますます繁盛した貸金業
森下は悪運が強い、といえばその通りかもしれない。本社ビルを建設したばかりでサンポール事件に見舞われ、窮地に立ったアイチを石油危機が救ったともいえる。新潟県の上越国際CCや川越グリーンクロスといったゴルフ場が倒産したのも、オイルショックの影響が大きかった。手形を持ち込んで借入を申し込む中小企業がアイチに押し寄せた。息をつく暇もない。森下の貸金業はますます繁盛していった。
森下自身はこの頃、海外進出を思いついたのかもしれない。頻繁にヨーロッパを訪れるようになる。欧州旅行は同業の貸金業者を誘うときもあれば、家族サービスを兼ね、妻や娘たちを連れていくときもあった。豪勢な欧州旅行について尋ねると、森下はこう話した。
「どうせ泊まるなら、安いホテルでは意味がないでしょ。その国で最もグレードの高いホテルの、いちばん高い部屋に泊まりました。すると、取引相手も驚くでしょ。私は語学が苦手だから、通訳も必要だしね。本当は若いうちに勉強すればよかったけど、彼らにも高いカネを出しているんですよ」
折しもオイルショックのあった73年、日米の貿易摩擦により、それまで1ドル360円だった固定相場制が変動相場に切り替わる。円が高騰して1ドル360円から1ドル280円前後の円高ドル安になり、日本人も海外旅行を楽しむようになった。