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 70年代、日本から欧米に向かうツアーオペレートは、スイスの「クオニイ」という旅行代理店が取り仕切っていた。JAL(日本航空)をはじめ、日本旅行や近畿ツーリストがそこを通じてパッケージ旅行を企画した。たとえばJALはJALパックジョイと称し、「ヨーロッパ15日間38万円」のツアーを盛んにPRし、ハワイのJALパックツアーも人気を呼んだ。

 森下が毎年のように欧州を旅するようになったのも、そうした海外旅行人気の空気が影響しているのだろう。もっとも森下の場合、ハワイや香港などがメインだった庶民向けのパックツアーとは、かなり様子が違った。欧州に出かけるときは、必ず日本航空グループに特別なツアーを用意させた。今風にいえば、自分たちだけのプライベートのオーダーメードツアーである。

 現在のようにさまざまな航空会社が国際線に乗り入れるようになった航空の自由化のはるか前である。日本の国際路線便は、日本航空がナショナルフラッグキャリアとして独占していた。

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 中学校もろくに通わず、長兄の洋服屋で丁稚奉公をしてきた森下は、子供たちの教育にずい分熱心だった。母親の異なる三人の娘たちをみな横浜の森村学園初等科に入学させ、一流大学への進学を望んだ。

 森村学園は1910(明治43)年4月25日、日本女子大の創立に関わった森村市左衛門が、東京・南高輪の邸内に「私立南高輪幼稚園」をつくったことから始まる。この年の9月に尋常小学校をつくり、71歳の市左衛門自身が園長と校長を兼ねた。森村学園はそこから中等科や高等科を加えて教育を広げ、戦後に横浜市に移転する。良家の子女が通う日本屈指の名門私立学校となる。

 にわか分限にありがちだが、森下はことのほか富裕層の優雅な暮らしぶりを意識していた。森下一家は、夏になると毎年、欧州旅行に出かけた。休暇期間は3人の娘たちの通う森村学園が夏休みになる7月下旬から8月いっぱいまでのおよそひと月半におよんだ。森下夫妻はもちろん、小学生の3人の娘たちもJALのファーストクラスで欧州に向かった。

 ファーストクラスにはむろん子供料金などない。旅行の費用は変動相場制の導入で円高に向かった日本円で、実に一人あたり1000万円から1500万円もかかった。そんな贅沢極まりないファミリー旅行は、今も昔も聞いたことがない。まるで欧州貴族の夏季休暇のような大名旅行だ。期間が長いだけに、旅の荷物も半端ではなかった。