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 アイゼンの爪を岩に引っ掛けてバランスを崩さないように注意しながら7メートルほど下りると傾斜が増したので、体勢を変えて岩と正対し、三点支持(岩場などの険しい場所で、手足4本のうち3本で体を支え、1本だけを動かして登り下りする技術)で下りることにした。その2メートルほどの難所を過ぎれば、下は平坦なテラスになっていた。

 こうした険しい岩場を通過するときは、万一滑落したときに巻き添えとなるのを防ぐため、ある程度の間隔を空けて行動するのがセオリーとなっている。このときも、先頭のクライマーの男性が「ちょっと待っていてくださいね」と田原にひとこと声を掛けて下りていった。田原はその場で待機し、男性が下のテラスに着くころを見計らってうしろ向きになり、小さな岩の出っ張りを摑み、アイゼンの前爪を雪面に刺して下りはじめた。田原の2、3メートルほど右上では、横山が岩にもたれかかるようにして腰を下ろし、田原が下りるのを見守っていた。

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「わーっ」滑落者のドロップキックで崖下にふっ飛ぶ

 そのときだった。青いウェアを着た登山者が、「わーっ」と声を上げながらドロップキックをするような体勢で上から落ちてきて、田原と目と目が合った。次の瞬間には横山がふっ飛ばされて宙を飛んでいた。横山の左手は長野県側にすっぱり切れ落ちた崖になっていて、横山はくるんと1回転しながら「きゃっ」とひと声叫び、崖の向こうに姿が見えなくなった。

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「なにしてるん、バカっ!」

 事故の瞬間を目の当たりにした田原は、思わず大声を上げていた。落ちてきたのは30歳前後に見える若い単独行の男性登山者で、横山がいた場所に、滑落してきた体勢のまま止まっていた。

「とんでもないことをしてしまいました。すいません」

 取り乱しながらもそう謝る男性に、田原は「そんなことを言っている場合じゃありません。とりあえず下りましょう」と返して、安定した下のテラスまで下りた。

「大変なことが起きた直後なのに、なぜかものすごく冷静でした」

 と、田原はそのときを振り返る。

後編に続く)