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なぜ「山口」は県庁所在地“らしくない”のか?

 だいたい多くの県庁所在地は、江戸時代からの城下町という歴史を持っている。260年にわたって地域の中心として機能した城下町は、行政だけでなく商業面でも大いに発展した。それがゆえ、城下町にルーツを持つ都市はいまでも経済的にも地域の中心的役割を持つ。

 ところが、山口が経済面で地域の中心だったのは中世までのこと。以後は長きにわたり萩往還の宿場町として過ごし、幕末のほんのわずかな期間だけ城下町に返り咲いた。つまり、同じ城下町であっても、他の都市とは明らかに違う経緯を辿って県都になった。

 何はなくとも行政の中心としての機能に特化した山口の町には、いまでも中世の面影がほのかに残る。

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 瑠璃光寺をはじめとする神社仏閣の数々もしかり、条里制の町並みもしかり。そうした点において、山口の町は唯一無二の存在といっていいのかもしれない。経済都市ではないがゆえの、地味なターミナル・山口駅。それは、マイナスなことではなくて、独自の歴史を辿ってきた山口という町の個性を体現しているものなのかもしれない。

 

じつは川のほとりには“わずか5年だけの山口駅”も…

 ちなみに、山口の市街地に初めて駅が開業したのは1908年のことだ。ただし、それは山口線ではなく、大日本軌道といういわゆる軽便鉄道だった(線路の幅が普通の鉄道よりも狭い)。

 明治維新の立役者を多数輩出した山口も、なぜだか鉄道には恵まれなかった。そこでやむなく軽便鉄道で小郡(現在の新山口)から小さな線路を敷いた。一の坂川のほとり、のちの山口駅よりも中心市街地に近いところに駅が設けられたという。

 この鉄道が遅れたことも、他の都市と同じような発展から少し取り残されて、行政の中心という役割がさらに極まったといっていい。発展の流れに乗って最先端をゆくのもいいが、それからあえて取り残されてみるのも、町の個性になりうるということだろう。

 

 軽便鉄道の山口駅(中河原駅)は、わずか5年後、1913年に廃止されている。山口線が開通し、現在の山口駅が開業したからだ。たった5年の軽便鉄道の痕跡はほとんど残っていない。ターミナルの中河原駅の跡地は、小さな公園として町の真ん中に整備されている。

写真=鼠入昌史

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。