あのザビエルの訪れた“もうひとつの京”…「山口」が全国屈指の大都市だった頃
その理由を探ると、実に中世にまで遡る。中世、山口をはじめとする周防一帯は、大内氏が治めていた。
大内氏は平安時代の末頃から周防に下り、鎌倉時代・室町時代を通じて勢力を拡大していった。全盛期には周防や長門に加え、石見・筑前・安芸・豊前なども勢力下に治めている。つまり、中国地方から九州北部までを治めた強大な勢力だったのだ。
そんな大内氏が拠点を置いたのが、山口の町だ。大内氏は山口の町を京都に模して整備したようで、条里制(つまり碁盤の目)の町並みを整え、一の坂川を京の鴨川になぞらえたのだとか。
つまり、規模こそいくらかは劣るものの、周囲を山に囲まれたこの盆地に、“もうひとつの京”を作った。文化的にも京のそれが取り入れられて発展。16世紀半ばには、かのフランシスコ・ザビエルも布教のために訪れている。
その際、ザビエルは山口が大都市であること、戸数は1万以上もあることを手紙に書いている。戸数1万だから、人口にすれば5万人は軽く超えていただろう。中世の山口は、いまの“地方都市”然とした山口の町からは想像も付かない、全国屈指の大都市だったのだ。
幕末、「山口」に変化が…
ところが、大内氏は毛利氏によって滅ぼされてしまう。以後、毛利氏は大内氏に代わって中国地方の覇権を握るが、その拠点は主に広島に置かれた。旧領主の栄華を示した山口の町は灰燼に帰し、地域の中心的な地位を失ったのである。
江戸時代には毛利氏長州藩の所領に含まれる。が、長州藩の城下町は日本海側の萩にあった。参勤交代の要路となった萩往還の中継地点としてそれなりの役割を得ていたようだが、往年の賑わいとは比ぶべくもない、小さな宿場町だったのだろう。ちなみに、萩往還はいまではアーケード街になって受け継がれている。
そんな山口が、再び脚光を浴びるのが幕末だ。幕末の1863年、毛利氏は萩から山口に拠点を移す。幕末の動乱の震源地になっていた京都とのアクセスを考慮したものだろうか。
そうして山口には山口政事堂(いわゆる城である)が設けられ、他藩の志士や公家たちも盛んに山口を訪れた。そうしてその当時の政治の中心という役割が、明治になってもそのまま引き継がれ、県庁所在地になったというわけだ。いま、山口県庁があるのは山口政事堂の跡である。