司馬氏が喝破していた、あの国の「かたち」とは――。ノンフィクション作家・広野真嗣氏による「司馬遼󠄁太郎『ロシアについて』の慧眼」(「文藝春秋」2023年1月号)を一部転載します。
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司馬遼太郎がみたロシアとは?
砲撃で破壊された病院や学校。後ろ手に縛られ殺害されたウクライナ市民……。目をそむけたくなるような報道に接するたび、大きな疑問が頭をよぎる。
なぜ、ロシアはこんなことをするのか?
2022年2月にロシアがウクライナへ侵攻してから1年近くになろうとしている。ロシアの数々の蛮行を前に、同じように考える人は少なくないだろう。
その答えを探している中で1冊の書籍に出会った。
司馬遼太郎『ロシアについて 北方の原形』(文春文庫)である。この本は、1982(昭和57)年に本誌「文藝春秋」に連載された「雑談・隣りの土々(くにぐに)」がもとになっている。
その一章「ロシアの特異性について」の一節に私は目を奪われた。
〈外敵を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰〉(以下〈 〉内は『ロシアについて』からの引用)
まさに今、私たちが目の当たりにしているロシアの姿ではないか。そしてこう続く。
〈それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だと思えなくはない〉
キプチャク汗(ハン)国とは、13世紀にロシア平原を支配したモンゴルの遊牧民国家だ。ロシア人諸国の首長を軍事力でおどし、農民から徹底的に税を搾りとった。首長が抵抗しようものなら軍隊が急行して町を焼き、ときには住民を皆殺しにして、女だけを連れ去ったという。
その支配の影響が現代のロシア人にまで及んでいるかもしれない、というのだ。ちなみに、モンゴル軍がロシアを攻めた30年後、日本では、やはりモンゴル帝国の元の軍勢が「神風」で壊滅した。いまも私たちは「神風」の意味するところを知っている。
ロシアという国の「かたち」を探る試み
なぜ司馬さんはロシアについて書いたのか。
軍人の秋山兄弟らを主人公にすえて、明治維新から日露戦争の勝利までを書いた『坂の上の雲』。ロシア船に捕らえられた幕末の商人、高田屋嘉兵衛の一代記『菜の花の沖』。この2作を連載していた都合7年半の間に、司馬さんはロシアについて考えつづけたという。