〈日露関係史を自分なりにしらべ、この両国の遠くからのいきさつについて一種の愛が湧きおこってくるのを禁じえなかった。その愛を、こういうかたちにして書きのこしておくことに、義務のようなものを感じた〉
そうした背景もあり、この本ではロシア史そのものではなく、おもにシベリアを介して、日本とロシアとの関係を考察している。
大幅に加筆されて刊行されたのは、本誌連載から4年後の1986年。79年に始まったソ連のアフガニスタン侵攻が続いていた時期だ。ソ連が崩壊したのは刊行の5年後だが、タイトルに「ソ連」ではなく「ロシア」とあるのは、ロシアを正規の国名としてではなく、〈ロシア史の時間的末端にあるソ連をもふくめた大ワク〉を示すものとして用いているからだ。司馬さんはこう書く。
〈体制がどうであれ、その国が、固有の国土と民族と歴史的連続性をもっているかぎり、原形というものは変わりようがない〉
これまで私たちは何度となく司馬さんの言葉に頼ってきた。昭和の終わり、冷戦の終結、バブル崩壊……時代の節目に、本誌で連載されていた随筆「この国のかたち」などをとおして、目のまえの複雑な事象を理解してきた。また、『アメリカ素描』や『街道をゆく』などの紀行文をとおして、日本や世界各国の「かたち」に触れてきた。
そこで今回、司馬さんがみたロシアの「原形」を出発点に、ロシア研究者や安全保障、国際政治の専門家、文学者など識者の力を借りて、今のウクライナ侵攻とロシアという国を考えようという試みが、この小論である。
言うまでもないことだが、ウクライナにおけるロシアの蛮行を擁護する余地はない。だが相手を理解しないまま対峙することになれば、こちらの対応を誤りかねない。この戦争が終わっても隣国であることは動かせない以上、私たちはロシアについて知らなくてはならない。
では、さっそく司馬さんの言葉を手がかりに、ロシアという国の「かたち」を探っていこう。
小泉悠さんに聞くと……
〈ロシア人は、国家を遅くもちました〉
司馬さんは、ロシアにおける国家の成立が、他の文明圏よりはるかに遅れた理由の一つとしてこう書く。
〈強悍なアジア系遊牧民族が、東からつぎつぎにロシア平原にやってきては、わずかな農業社会の文化があるとそれを荒らしつづけた、ということがあります〉
ロシア人の祖先である東スラブ人が世界史に登場したのは6世紀ごろとされている。9世紀になってやっと現在のウクライナのキーウ(キエフ)に小さな国家をたてたが、その前からも、その後も、残虐さでローマ帝国を震撼させたフン族をはじめ、東からくる遊牧民に何度となく悩まされてきた。
〈平原にあってつねに外敵におびえざるをえないというのが、ロシア社会の原形質のようなものになっており、いまなおつづいているといえないでしょうか〉
〈文化も、他の生物学的組成と同様、しばしば遺伝します。ロシア人の成立は、外からの恐怖をのぞいて考えられない、といっていいでしょう〉
ロシアの軍事・安全保障政策が専門で、ロシアへの留学経験もある東京大学先端科学研究センター専任講師の小泉悠さんはこんな話を教えてくれた。