認知症に対して偏見を持つべきではないと井桁先生は訴える。「認知症になると何も解らなくなり、不可解な行動を起こす」「認知症患者は周囲に迷惑をかける人」などと考えるべきではない、と。確かにその通りだと思うのだが、先生は彼らを介護するには「患者のありのままを認め、そのこころを知る」べきだと力説するのである。
ありのままを認めてよいのか。
私などは疑問を覚える。父のありのままを認めると、それこそ「周囲に迷惑をかける人」になってしまう。そもそも「ありのまま」とは一体、どういう状態なのだろうか。よく耳にする「ありのままの自分」のように、周囲との関係から離れた状態なのかもしれないが、あらゆる関係を取り払った父を私は想像することもできない。もしかすると「ありのまま」とはそのままということで、解釈を加えてはいけないという戒めかとも思ったのだが、次のようなアドバイスもあった。
認知症患者に寄り添うためには、表に出てきた言葉や行動をそのまま理解するのではなく、その背後にあるこころを感じ取ることが大切です。
父の言葉や行動の背後にどんな「こころ」があるのか…
患者のありのままを認めるが、言葉や行動をそのまま理解してはいけない、ということで、一体どのままなのだろうか。さらに不可解なのは「背後にあるこころ」。それを感じ取るべきだというのだが、父の言葉や行動の背後に一体、どんな「こころ」があるのだろうか。
背後霊のように「こころ」が言葉や行動を操っているというのだろうか。父の言葉や行動から感じ取れる「こと」を背後に控える「こころ」という「もの」に置き換える。そうすることで「もの」が「こと」を引き起こすという因果関係を捏造したいのかもしれないが、その「こころ」はあくまで私が想定する「こころ」であって、私自身の「こころ」の反映にすぎない。
そもそも「こころ」とは「凝り凝りノ、ここり」(大槻文彦著『新編 大言海』昭和62年 冨山房)が転じた言葉で、要するに凝り固めたもの。いったん確定してしまうと、自分が思い込んだ「こころ」越しに相手の言葉や行動を見ることになるわけで、それはすなわち「ありのまま」という名の偏見を持つことであり、そのせいで相手の微妙な変化を見落としてしまうのではないだろうか。