小野 あのマンションは、そもそも住んでいる人が少ないといいますか、事務所利用の多いマンションなんですよ。事件現場の部屋はその後、1回借りた人がいますが今は空室ですけれども、ほかの松永が借りた物件は現在、住んでいる人がいます。
その人たちもそうですが、事件に巻き込まれた人には今の生活がありますから、実は書けなかったことも多い。その方々の尊厳を守らないといけませんから。ただ事件自体が人間の尊厳を毀損するものなので、ある程度は出していかないといけない部分もあります。そこを考えながらこの本を書きました。
清美さんの証言が、緒方の黙秘を突き崩すきっかけに
――担当の元検事が、黙秘していた緒方純子が自供に転じたのは「自分が体験した事実と違うことを清美さんが喋っているということが、気に入らなかったんじゃないでしょうか」と振り返っています。松永の呪縛が解けたとか、贖罪意識からではない。このあたりがノンフィクションの醍醐味といいますか、事実の機微だと思いました。
小野 広田清美さん自身は、松永に仕向けられて犯行に加担させられたことについては、その場にはいなかったなどと言って、あまり積極的に証言していなかった。松永は肝心のことは話しませんし、緒方は黙秘したままなので、当初は警察や検察は清美さんの証言を頼りに捜査をしていきました。それは緒方からすると、事実と異なるかたちで進められていることになります。
それに緒方は、自分の両親らの最期について、真実が世の中に伝えられていないことに対するもどかしさを感じたのではないでしょうか。実際に起きた出来事と違うことが裁判のなかで本当のことになっていくのが納得いかなかった。それが、黙秘を続けていた緒方が事件について自供を始めたきっかけだと思います。
「借りていた50円を返したい」という電話が“蟻地獄”の始まり
――“きっかけ”でいえば、緒方は20歳のとき、高校の同級生を名乗る松永から「君から借りていた50円を返したいんです」と電話があり、それをきっかけに会うようになり、蟻地獄にはまっていきます。
小野 松永はそのとき結婚していましたが、緒方と交際を始めると高価なプレゼントを贈ったり、結婚を匂わせたりします。緒方家の財産を狙ってのことです。緒方も結婚できるかもしれないと期待していました。緒方家は厳格な家庭だったと言いましたけれども、そこで育った彼女には純潔さを大事にするところがあった。公判で緒方自身が述べていますが、初体験の相手は松永でした。初めての男性に一生を捧げるという道徳感情を松永に利用されるわけです。
緒方は松永に「自分のことを信用していない」と言って暴行されるうち、信用されないのは自分が悪いからだと思い込むようになります。それで虐待を受け入れ、松永の要求になんでも従うようになっていきます。最終的には自分の家族まで松永に言われるままに殺害してしまいます。
現在も定期的に面会している担当の弁護士を取材すると「出所する気はないようだ」と言っていました。今更出ても、知っている人も家族もいないですからね。