福井県で育ったハーフの少女は、15歳でいきなり、世界的なモデルコンテストの日本代表としてデビュー。以来、道端カレンは90年代後半から2000年代までの女性誌をほぼ総ナメにし、活躍してきた。

 しかし、本人は当時を振り返ると、《痩せているのが正しい》という不文律にずっと苦しめられ、数えきれないほどダイエットをしたという。

 理想の体型ともてはやされるモデルが対峙していた「痩せの呪縛」とは、どんなものだったのか。(全3回の3回目/1回目を読む)

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©文藝春秋 撮影/鈴木七絵

「あっちの世界の人」になりたかった

――道端三姉妹は、お母様から「モデルになりなさい」と育てられたと聞きます。親の敷いたレールに乗るのは嫌だ、という反発心などはありませんでしたか。

©文藝春秋 撮影/鈴木七絵

道端 母はファッションが大好きで、私は物心ついた頃から、洋雑誌やテレビの『ファッション通信』などを見ていたんです。

 当時は80年代後半で、“ビッグファイブ”といわれるスーパーモデルたちがワーッと出てきた頃です。彼女たちを見て、私は素直に憧れていました。

ビッグファイブとは、スーパーモデルの中でもトップ・オブ・トップといわれた5名(リンダ・エヴァンジェリスタ、ナオミ・キャンベル、クラウディア・シファー、シンディ・クロフォード、クリスティ・ターリントン)を指す。画像はナオミ・キャンベル ©時事通信社

――モデルの世界は素敵だな、と。

道端 そうです。あの時代はすごい人たちが次々に現れた、夢のような世界だったので。保育園の卒園文集に「将来の夢はモデル」と書いたくらい、大好きでした。

 当時はインターネットがなかったので、スーパーモデルの出る雑誌やテレビを必死で見て、「ああなりたい、あっちの世界に行ってみたい」と。

15歳で世界的なモデルコンテストの日本代表に

――では、自分から進んでモデルになったんですね。

道端 はい。1994年、福井に住んでいた15歳のときに、エリート・モデル・ルック(モデルエージェンシーのエリートが主催する、世界的な新人モデルコンテスト)に応募して、日本代表になりました。これが、私のモデルキャリアのスタートです。

――いきなり日本代表に。

道端 日本代表は私一人で、スペインのイビサ島のコンテストに出場しました。実は、ジゼルもブラジル代表で同じステージにいたんですよ。

ジゼル・ブンチェン(2005年撮影) ©時事通信社

 その後、東京で2週間仕事、福井で2週間中学校……のように、東京と福井を行き来する生活になって。中3のときは学校に半分くらいしか行かず、教科書はほとんど新しいままでした。

――そして、中学卒業後に上京。

道端 はい。高校受験はせず、3月の卒業と同時に上京して、一人暮らしです。卒業式の翌日には仕事をしていた記憶がありますね。

ごはんは「残すのが当たり前」の衝撃

――その後のカレンさんの活躍は目覚ましかったですよね。

道端 モデルの仕事はスチールもショーも、両方大好きでした。10代では『Seventeen』(集英社)や『ViVi』(講談社)の専属をやったり、『mini』(宝島社)などによく出ていました。

22歳ごろ。本人のInstagramより

――当時は90年代ですよね。やはり、ケイト・モス的な「細くて華奢」な体型を求められたのでしょうか。

道端 痩せているのが正しい、という時代でした。

 長時間の撮影だとスタジオにお弁当が出るんですが、他のモデルさんは残すんですよ。それを見て「ごはんて、残すものなんだ……」と思ったのを覚えています。

©文藝春秋 撮影/鈴木七絵

――完食するモデルはいなかった?

道端 みんなほとんど残してました。「出された分、全部食べると太っちゃう」とか、「むくみやすくなるから」という理由だったと思います。

 私はもともと、よく食べるほうだったんですよ。父がアルゼンチン人なので、実家で出る食事の量も多かったんですが、出されたものは全部食べていました。食べ物をわざわざ残す、という発想がなかったです。