それにフィリピン人も多かった。ほとんどはバブル期、夜の世界で働くためにやってきた女性だった。だからオープン当初の亀仙人街にも、フィリピンパブが入居した。加えて日本人経営のスナックや雀荘、中華料理などが、初期の亀仙人街の店子だったそうだ。当初は店もお客も日本人のほうが多かったという。フィリピンパブも経営は日本人だったが、舞台でのショーが人気で、「駐車場どこさも入れねえよ。農道までクルマが行列してよ」というほど大盛況だったそうだ。
草間社長のポリシー
しかし、いつしか常総地域は少しずつ廃れていく。高齢化、過疎化の波は茨城も確実に呑み込んでいく。若者たちは東京や、茨城でもまだなんとか栄えているつくばや守谷に流れていってそのまま戻らず、常総のような地域は農家も店舗も後継者不足に悩む。
「石下駅(関東鉄道)の近くにあった飲み屋も、もうやってないとこばっかだしな。みいんな潰れちまった。運転代行を使ってまで飲まなくなったしな」
亀仙人街の賑わいも次第に失われていく。そして、店子からは日本人店主が少なくなっていった。
「日本人は根性なくて、続かなくてよ。いつの間にか外国人ばっかりになっちゃったんだよ」
それでも草間社長にはポリシーがある。夫や妻といった配偶者など、誰か日本人を保証人に立てること。それが外国人にも店舗を貸す条件だ。それだけ日本社会にしっかりと根づき、信頼してくれる日本人の知り合いがいる人に限る……のだが、どうも「あくまで原則」のようだ。
昼は介護施設、夜は亀仙人街でスナックを営んだタイ人の女性
「小さい子供つれて流れてきたタイの女がいたんだ。タイに仕事に行ってた日本人の男と向こうで知り合ってな、タイの家族の大反対を押し切って日本に来た」
そして日本で子供を産んだはいいが、夫は急な病で亡くなってしまう。それでも、彼女はタイに帰らなかった。実の母から帰国を切望されていたが、日本に留まった。
「私は日本のこのダンナの家にヨメに来たんだから帰るわけにはいかない、だからここで商売やりてえって言ってよ。たいしたもんだよ。日本人でもなかなかできねえよ。だからよ、わかった、おめえだったら貸すって言ったんだ」
亡くなった夫の実家が保証人になってくれたわけでもないのだが、彼女を店子にした。すると昼は介護施設、夜は亀仙人街でスナックを営み、懸命に働いたのだという。
「そのうち龍ケ崎に家を買ってな。せがれもちゃんと育てて、何年か前に大学が終わった。そのせがれから、将来どうしたらいいか相談されたことがあるんだ。だから言ったんだ。一生懸命に勉強してタイに行けって。そんで母ちゃん呼んでやれって」
その言葉を目標に息子はがんばっているのだという。母はもう亀仙人街の店を閉めたが、いまも付き合いが続いているのだ。