始めの一歩を励ます本
瀧井 何か道を歩み始めたばかりの頃の、その分野における自分の居場所が分からず迷う感じがすごく出ているなと思ったんです。私も若い頃はそうでしたし。彼の繊細な心の動きは、真摯に働く人や夢を追う人の心に響くはず。実際、私は門出を迎えた若い人にこの本を贈ったりもしています。
宮下 わあ、嬉しいです。
瀧井 私が外村君を愚直だと感じるのは、師匠の板鳥ファンだからです(笑)。板鳥さんはすでに自意識にとらわれることなく無我の境地で仕事に集中している。ものすごく憧れます。彼のアドバイスも印象的ですね。「ホームランを狙ってはだめなんです」とか。
宮下 それは自分の中にあった言葉です。私も一発狙ってホームラン、というふうには考えないので(笑)。
瀧井 板鳥さんは自分が目指す音について小説家の原民喜を引用しますよね。「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」という。
宮下 いい言葉だなと思ったものをたまに手帳に書き留めておくんですが、これも何年か前に手帳をめくったら書いてあったんです。読み返して「これを読んだ時に受けた感銘は今でも変わらないな」と思いました。
瀧井 ここに書かれることは、宮下さんの文章世界に通じるものがありますよね。宮下さんの文章もとても美しくて澄んでいる。
宮下 いえいえ、まだまだです。でも、そこを目指していきたいと思います。
瀧井 自然の描写にしても音楽の描写にしても、染み込む表現がたくさんありました。一方で双子の少女など、顧客たちのエピソードにも引き込まれました。
宮下 最初は調律の師匠と弟子の話にするつもりでしたが、弾く側の話もほしくなって。双子を思いついた瞬間は「あー、書けるー!」と嬉しくなりました(笑)。双子を書いている時はもう楽しくて、連載では書きすぎちゃったので、本にする時に調整したくらいです。
瀧井 そういえば、校了間際になって終盤に加えた一文があったとか。
宮下 そうです。外村君の、「僕の中にもきっと森が育っていた」という一文です。私、その時、「ああ、これを書けてよかった」と思ったんですよね。でも今こうしてみると地味でどうってことない文章ですね……。
瀧井 どうってことありますよ! 242ページ、とても大切な部分にこの一文はあります。
宮下 やっぱり書いてよかった(笑)。これは本当に書ききった感がある小説です。
瀧井 ところで宮下さんはデビューが遅めですよね。3人目のお子さんを妊娠中に小説を書き、初めて賞に応募されたとか。