2000年のシドニー五輪出場を逃し、02年の世界選手権は第一次ラウンドで敗れ13位。遡れば、96年のアトランタ五輪では9位、98年の世界選手権も8位だった。世界では大型化や技術向上が進み、かつてメダル獲得が宿命だった日本代表の立場は大きく変わりつつあった。
そんな中、まさに救世主として現れたのが“メグカナ”だった。
高校在学中から共に日本代表候補に選出され、春高やインターハイ、国体だけでなく、日本代表としてもプロに混じって合宿に参加していた。大山は高校在学中の02年に世界選手権とアジア大会に出場している。
高校までの全カテゴリーで日本一を経験し、高校在学中から日本代表として活動する。エリートそのもののバレーボール人生ではあるが、もともと弱気で人見知りな大山は、日本代表の合宿に参加するだけでも心細くてたまらなかったと振り返る。
「最初の合宿に1人で行くのが怖くて、岐阜まで小川先生についてきてもらったんです。成徳は選手主導で自由な環境だったのに対して、代表やVリーグは全く違う厳しい環境であることは子供ながらにわかっていたので、自分がそこでやっていけるのか、不安と恐怖しかなかった。小川先生が帰ってしまう時は、寂しくて泣きましたね(笑)」
そんな大山の心とは裏腹に、次世代を担う日本待望の大型エースとして才能を見込まれ、大山と栗原は03年のワールドカップに日本代表として選出された。その前年に、高校生日本一を決める春高で“メグカナ”対決を繰り広げた2人が、今度は日本代表として同じコートに立つ。スタメン出場した初戦のアルゼンチンから、日本は大いに盛り上がった。さらに、中継局が春高と同じフジテレビ系列だったことも重なり、春高から続くシンデレラストーリーとして華々しく取り上げられた2人は、一気に大ブレイクする。
「プリンセスメグ」と「パワフルカナ」。覚えやすいキャッチフレーズも相まって、連日多くのメディアが2人を取り上げ、試合が終われば2人が乗る日本代表のバスを多くのファンが取り囲む。春高を終えた直後も学校には多くのファンレターが届き、通学路で声をかけられることもあったが、人気の度合いはその当時と比にならない。ワールドカップを終え、Vリーグが始まってからもメグカナフィーバーは続き、全国どこへ行っても試合になれば多くの観客が詰めかけた。
「もうオリンピックもどうでもいいから逃げ出したい」
そんな環境を幸せだと思う中、大山はこの後も長く付き合うことになる腰痛を発症する。これをきっかけに、華やかだった世界が一変した。