人は必ず陰徳を修すべし
曹洞禅の語録書である『正法眼蔵随聞記』に収められた一文です。
陰徳とは誰かに気づいてもらう、知ってもらうことを目的としない善い行ないを指します。報酬や見返りを求めない善行です。
陰徳は様々な古典に取り上げられています。嫌いだなと思う人に噓をついたり、意地悪なことをしたりすると、結果として自分の運気を下げてしまう。友人のために自分を犠牲にしたり、道端に落ちているゴミを拾ったりすれば、過去の悪い行ないを消していくことになる、と説明されています。
私たちがもっとも自然に、なおかつすぐにできる陰徳は、感謝の気持ちを抱くことでしょう。この世に生を享けたこと、いまを生きていることに感謝すれば、両親にありがとうと伝えたくなるでしょう。定食屋さんやファストフードであわただしく食事をするときでも、心を込めて「いただきます」や「御馳走さま」が言えるはずです。
2019年5月8日のオリックス・バファローズ戦で、私は監督通算527勝を達成しました。ファイターズの監督としては、前身球団を含め単独で2位になりました。
試合後の取材では「数字はあまり関係ないですね」と話しました。謙遜ではありません。栗山英樹が勝ったわけじゃない。選手たちが527の勝利を勝ち取り、たまたまそのベンチに私がいただけです。選手、コーチ、球団のスタッフへの感謝の気持ちでいっぱいでした。「本当にそれしかない」と頭を下げました。
私の感覚からすれば、ファイターズはもっと勝っているはずなのです。私の能力が足りないばかりに、勝利を逃した試合は数多い。自分の力で積み上げた白星だ、などと捉えられるはずはないのです。
仕事も私生活も人間関係も、すべて完璧にこなせる人はいません。誰にでも長所と短所がある。自分自身にも欠点があることを認識すれば、周りの人の失敗がことさらに気になることはないでしょう。「あの人が苦手なことは、自分がやればいいんだ」と思えるはずです。
人のために何かを尽くすということは、表立ってすることではないし、ひけらかすものでもありません。「アイツがダメだから、しかたなくオレがやってやるんだ」といった邪心がなく、自己都合に偏らない行為は、とても気高いものです。思考に私心がない。
子どもを持たない私には想像の域を出ませんが、親が子どもを思う気持ちは気高いと感じます。自分の子どものためなら何だってする。できないことはない。命に代えても子どもを守り抜く親は、義俠にも似た心を宿しているのではないでしょうか。
子どもの未来をいつでも、力みなく、自然に、飽くことなく考え続ける――私もそういう気持ちで選手たちに接したい。自分に良い流れを持ってくるには、陰で人のためにどれだけ尽くせるか、そのための努力が問われるのでしょう。
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