心菜さんが語った両親との関係
そして心菜さんは翌週も訪れました。この日も自分の貯金から引き出してきたとのことだったので、私は費用の工面のことがとても心配になっていました。
「両親のことを教えてもらえますか?」
心菜「ふつうです」
「お父さんはどんな人?」
心菜「まじめな感じ」
「小さい時から会話はありました?」
心菜「あまりないです。お父さん、仕事あるから」
「では、お母さんは?」
心菜「お母さんも仕事してるから」
「お母さんともあまり話さないの?」
心菜「はい。お母さん、私に関心ないみたいです」
「どうしてそう思うの?」
心菜「中学生くらいのとき、死にたいって言ったことがあって……」
「そうしたら?」
心菜「『ふーん』だけでした」
「なるほど。『どうして死にたいの?』とか、『死んでほしくない』とか、お母さんはそういうことも言わなかったのでしょうか?」
心菜「はい」
「それは寂しいですね」
心菜「別に寂しいとは思いませんでした」
何事においても「ふつう」と言ってしまう理由
親のことを単に「ふつうです」と言う場合、子どもの育ちにとって好ましくない家族環境が影響していることは少なくありません。何事においても「ふつう」と言ってしまうのは心菜さんの口癖です。
一方で「自分の存在自体が嫌」と言うほどに自己否定は顕著です。心菜さんの口癖の「ふつう」と「自己否定」の間に関係性が考えられました。彼女の「ふつう」は、「考えてもどうしようもない」という無力感の表現型、つまり願望などを心理的にスルーするという営みが習慣化したものでしょう。「寂しいとは思わない」もそうです。そうだとすれば、親や家庭のことについて自発的に語ってもらうには困難が伴いますから、私のほうから踏み込んで質問してみることにしました。
「両親の仲は、よかったと思いますか?」
心菜「ふつうかな」
「楽しそうに話しているところは見たことありましたか?」
心菜「ないです」
「言い合いはありました?」
心菜「それはよくありました」
「どちらかが強く言うとか、力関係の違いはありそうでした?」
心菜「どっちもどっちっていう感じかもしれません」