この件に関して、中谷には聞いてはいない。だから、中込の述懐だけで、これが真相だと断言しているのではない。
ただ山村によると、中込はその後、中谷の治療にも山村の時のように付き添い、和歌山の実家を何度も訪れ、中谷の母親に謝罪を繰り返していたという。
「山村君から、それも聞きました」と伝えると、中込はまたもや、豪快に笑った。
「そうかー、あいつも、そういうことを口にするようになったんやな。やっと口を開いたんやな、うははははー」
阪神から戦力外通告を受けた山村には、近鉄が即座に獲得へ名乗りを上げた。
2000年に1軍監督へ昇格した梨田昌孝は、その前年まで2軍監督を4年間務めていたことで、山村のファームでの投球をよく見ていたという。しかも1999年は、かつて阪神のエースとして活躍した小林繁が2軍バッテリー総合担当コーチだった。
「梨田さん、ホントに早かったです。11月の頭には連絡が来ました。クビになって実家に帰っていたんですが、すぐに電話がかかってきました」
知り合いからの電話は「ちょっと小林さんと代わるわ」というものだった。
山村はその時、小林とは話もしたことがなかったのだという。
中谷はWBC日本代表へ、山村は日本シリーズにも登板した
「お前、もうウチでやれ」「はい?」「大丈夫、できるから。任せろ、俺に」
小林も、阪神というその「環境」の特異さを知り尽くしている。その“場”を変えさえすれば、山村は持てる力を発揮できると踏んでいたのだ。
小林の電話を引き継いで、梨田も山村に声をかけた。
「ウチでやれ。大丈夫だ。環境が変われば、お前はできるから」
2人の“目”は確かだった。
山村は2000年、6勝を上げ、オールスターにも出場。近鉄がリーグ優勝を果たした2001年にも7勝をマークし、日本シリーズでも登板している。近鉄がオリックスと合併した2005年に新球団の東北楽天へ移籍すると、2012年まで現役を続けた。
引退後は山梨でデザイン会社に勤めながら、母校・甲府工のコーチを務めている。
中谷も、2006年に東北楽天へ移籍。2011年に戦力外通告を受けるが、12球団合同トライアウトに挑戦すると、巨人が獲得に乗り出した。
その人柄とキャッチングのうまさが重宝され、現役引退直後の2013年には、日本代表監督の原辰徳の推薦で、WBCで日本代表のブルペン捕手も務めている。