「梅田より難波より、あの新宿より、十三にはキャバレーが、それも大きいのがたくさん集まっとったんですね。大阪万博の建設もあって労働者がたくさんおった。ほんで当時は、男がええ格好する言うたら、やっぱキャバレーしかなかったんですよ。今はいろんな遊びがありますけどね。(昭和50年代頃)大箱が19軒もあった。あとアルサロとか、ミニキャバレーがたくさん。格好もミニです。ピンク・レディーがテレビに出てきたときね、『キャバレーと同じ格好や!』って思いましたわ」
ホステス衆、どっと笑う。
少し解説がいる。アルサロとはアルバイトサロンの略。プロのホステスが接客するグランドキャバレーに対して、昼に別の仕事を持ち、夜バイト感覚で働く女性たちを集め、その素人らしいみずみずしさを売りにした。専業者でないために値段も低めに設定して勝負したわけだが、実質はもう、キャバレーである。
ベテランホステスたちが語る昭和のキャバレーとは?
十三の街には、1970年開催の大阪万博に携わった労働者に限らず、武田薬品の本社や工場が立地し、そもそも汗を流す男たちが大勢いた。退勤後、彼らも遊びに来られる価格帯の店が乱立したのだった。
生バンドの演奏に合わせて歌う鶴田浩二、松方弘樹、藤田まこと……などなど昭和スターによる歌謡ショー、ときにはヌードショーもかかった十三のキャバレー。ベルベットのソファ席には時々吉本芸人の姿も。「アホの坂田」でおなじみの坂田利夫、パチパチパンチの島木譲二、オール巨人、皆マナーよく歓楽した。
今もその時代の香りが街に残っているということになる。先生の言葉通り当時娯楽は多くなく、国が豊かになるにつれ遊びの選択肢は増えていった。やがて、キャバレーは埋もれていく――。歓楽の多様化。これが衰微2つ目の理由だ(1つ目の理由は設備の老朽化と賃料。前編を参照)。
全盛の昭和後期には、どんな客で賑わっていたのか、藤井先生に負けないベテラン度合い、小柄で笑顔に愛嬌のあるホステスが言い添える。
「そうやな、昔はブルーカラー言うの、鳶職とか。その人らと、そういう会社の経営者、商店主が多かったな」
キャバレーらしく胸元に名札が付いている。ともえ、とある。ともえねえさんと呼ばせていただきたい。おねえさんは何年ホステスやっているんです?
「50年やね。ラテンクォーターっていうキャバレーに4年いて、その時期に子ども産んで、あとここへ。私が入ったばかりのころは、行列できてたよ」
ラテンクォーターは力道山が刺された赤坂の店を思い出させるが同名無関係。となりのホステスもうなずく。
「あと気前いいお客さんも多くて。ほらあそこに――」
そう言ってステージを指さすのは、2番手のベテランホステス、25年勤務するナツエねえさん。
「あるお客さんが、バーっとあそこに15人か20人ホステスを呼んで、1人ずつ1万円入ったご祝儀くれたりな。そのころは1階も2階も満席。17時に店はじまって、21時頃になると軍艦マーチが流れるんよ。ホステスはみんな立ち上がる。おもてに次のお客さん待ってはるから、はよ帰らせなさいの合図(笑)」
ナツエねえさんはそう教えてくれた。すると、ともえねえさんも笑いながら言葉を続ける。