愛国精神を詠った歴史上の名歌のみが選出されているのが特徴で、万葉集から幕末まで詠み手も実に様々。選考委員に名を連ねたのは当時の一線級の詩人ばかりでしたが、彼らの意向もあり郷土愛や家族愛を詠った歌も広義の愛国精神の歌として選ばれています。まぁそれでも制約はあり、歴代天皇の歌が選ばれてなかったりもするんですけどね。なにせ当時の基準からすれば天皇は愛国を「詠まれる側」であって「詠む側」ではなかったでしょうから。
競技かるたの世界には「決まり字」という考え方があります。これは読み札の文字をどこまで確認すれば歌を確定できるかの指針で、例えば小倉百人一首に「む」から始まる句は一首しかないため一文字聞けば歌が確定する一方、「あ」の札は「あさぼらけ」まで読んでもまだ二首候補が残るためギリギリまで駆け引きが要求されます。正確な記憶力が勝負を左右する競技かるたでは、決まり字はその面白さをも左右する重要な評価点なのです。
そこへ行くとこの愛国百人一首。愛国精神を詠った句ばかりを集めた結果「オホキミ」「キミガヨ」などの愛国的文言から始まる歌が非常に多く、「オホキミノミコトカシコミ」「オホキミノミタテトナリテ」など12字聞いても確定しない句がまだ六首も残るというピーキーなバランスをしています。もしも競技カルタとして流行していたら……、小倉百人一首よりも一層強い集中力が求められる競技シーンが出来ていたんじゃないでしょうか。
愛国百人一首を好意的に受け入れる人々は沢山いた
ちなみに、選者である斎藤茂吉の息子であり後に小説家となった北杜夫は、当時この作品を遊んだ感想を自身のエッセイ集『マンボウぼうえんきょう』にて「ごつごつしていて、詠みあげようにも詠みようがなかった」と書き残しています。国の都合で小倉百人一首というこれまで慣れ親しんだ“民間”のゲームが取り上げられ、全く知らない“官製”ゲームを突然押し付けられた。当然、ゲームそのものに不満を抱いた人も少なくなったでしょう。
しかし大半の人が“官製”ゲームに不満を抱いていたかと言えば、それは違います。何故なら“民間”にも愛国百人一首を好意的に受け入れる人々は沢山いたからですよ。
例えば、雑誌『文藝春秋』昭和18年1月1日号には、小倉百人一首に対して「恋の歌が多すぎるので代わりが必要だと昔から言われていた」と貶してみたり、愛国百人一首が選定されたことを「大東亜戦争が生んだ有り難い副産物であり、誠に喜ばしい」と持ち上げるエッセイを載せてみたりとか、……ありましたよね文春さん?
(参考資料:『大政翼賛会のメディアミックス:「翼賛一家」と参加するファシズム』 平凡社)
中編に続く