ノンフィクション作家で小説家の沢木耕太郎さんの傑作小説『春に散る』が、このたび映画化、近く公開される。主人公の元ボクサー・広岡仁一(じんいち)を演じるのが、日本映画の重鎮であり、常に新しいことに挑戦し続けている俳優の佐藤浩市さんだ。ダブル主演として名を連ねるのは注目の若手俳優の横浜流星さん。広岡に教えを請い、ともに世界チャンピオンを目指す青年・黒木翔吾を演じる。この二人が出会い、運命を決する試合を迎えるまで、約1年間の物語だ。
「瀬々敬久(ぜぜたかひさ)監督と最初に話したのは、己の背中を見せて、若者よ人生とはこういうものだ――と言うような映画にはしたくないね、ということ。広岡は、翔吾の師匠じゃないし、親でもない。生き方を重ねたとしても、夢を託したわけじゃない。おそらく自分自身からではなく、自分と一緒にいた時間の中から何かを、二度とノックアウトされずに生きていく力を得てほしいと思っていたんじゃないかな」
夢に向かってがむしゃらな翔吾と、彼をじっと見守る広岡。それは近年、ベテランとして若い俳優との共演が増えた佐藤さんの姿にも重なる。
「僕たちが若い頃は、世の中や先輩に対して前のめりで攻撃的で、そういう姿勢こそかっこいいと愚かしくも思っていたけど(笑)、今の人たちは賢いから、そんなことはしない。でも、彼らの中にも熱く滾(たぎ)るものは間違いなくある」
それが最もよく現れたのが、本作の見どころであるボクシングシーンだ。翔吾が臨む3つの試合は、回を重ねるごとにその激しさを増していく。
「もちろん芝居だから、ある程度、動きは決まっているし、勝敗も台本通り。だけど“負けたくない”という彼らの思いは撮影中にもひしひしと伝わってきた。リングに上がった流星、そしてライバル役の窪田正孝や、坂東龍汰(りょうた)も、誰よりも強くありたいと本気で拳を交わしている。だから、本当に凄い、稀有な格闘シーンになったんですよ」
一方、広岡は自分の体を蝕む病とひそかに闘っていた。アメリカで暮らしていた彼が40年ぶりに帰国した理由は、仲間たちと日本で穏やかに余生を送るためだったのだ。
「とはいえ広岡が何を考えているのかは、実ははっきりとは描かれません。ほかの人物についても同じ。ただ、今回はそれがよかったんじゃないかな。例えば、広岡と、山口智子さん演じる令子との関係。二人の間には、かつて何か揺らぐ感情があったのかもしれない。でも、互いに言い出せないまま時が過ぎてしまった……と、何の説明もないけどわかる。そこがいいんですよ」
そして、佐藤さんがこだわったのはラスト近くで広岡が見せる、ある表情だという。
「昭和世代は“死に方”にひと方ならぬ思いがあるんです。しかも、そこに悲しみや愚かさが内包されていなければ意味がない。僕は、これまでいろんな死を演じてきたけど――誰だって、死にたくて死んでいくんじゃない。逆に言えば、そうじゃない役はやりたくない。実は一番大切にしていることです。ここに込めた思いを受け取ってほしいですね」
さとうこういち/1960年、東京都生まれ。80年に俳優デビュー後、数々の映画、ドラマに出演。94年『忠臣蔵外伝 四谷怪談』、2016年『64 -ロクヨン- 前編』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞。近年も、話題作に多数出演。今年10月には『愛にイナズマ』の公開も控える。また、21年には歌手としてアルバム『役者唄 60 ALIVE』を発表。10月7日(土)、恵比寿ザ・ガーデンホールにてLIVE開催予定。
INFORMATION
映画『春に散る』
8月25日公開
https://gaga.ne.jp/harunichiru/