昭和の初めの住宅街と下町の商店街、そして大商業施設…そんな「西宮北口」の100年前の姿は?
西宮北口駅北東に聳えるアクタ西宮は、その被害からの復興で生まれた、再開発ビルなのである。
西宮市は震災後直ちにこのエリアの復興計画を策定し、大きな再開発ビルを建設する方針を定めた。途中、仮設の「ポンテリカ北口」(逆から読んでみましょう)が建設されて凌ぎつつ、2001年にはアクタ西宮がオープン。震災前にこの地にあった店のうち、約50店舗がアクタ西宮に入って営業を継続することができた。
つまり、少し遡って震災前の風景もあわせて思い浮かべてみれば、この駅の北西側は昭和初めからの高級住宅地、そして北東側には小さな店がひしめく下町感の強い商店街という、端から見れば真反対とも思えるような町が並び立っていたということになる。
それが震災での被害を経て、2000年代初め頃にアクタ西宮を皮切りとして南側にも西宮ガーデンズや文化センターが誕生していまの西宮北口駅を形作ってきたのである。
最初に西宮北口駅が開業したのは、1920年のことだ。その当時、駅周辺にはため池があって狐が出るような、つまりは不毛の地であった。所在地も西宮ではなく瓦木村といった。
ただ、西宮神社で名高い西宮の市街地のすぐ北側にあったからなのだろう、阪急は「西宮北口駅」と名付けた。瓦木村の人々は不満を抱いたそうだ。が、いまとなってみれば大正解である。
1921年には阪急今津線が開業し、ターミナルとしての第一歩を刻む。阪急は周辺を住宅地として開発するとともに、今津線沿線に関西学院大学などを誘致。さらに、1937年には日本初の二階内野スタンドを持つ西宮球場もオープンし、阪急ブレーブスの本拠地として存在感を高めた。
戦後しばらくまでブレーブスは低迷したが、60年代後半からは黄金時代。パ・リーグの強豪として名を馳せ、西宮球場とその周辺のニシキタもたいそう賑わった。
なお、戦時中には西宮の旧市街が空襲被害を受けたが、ニシキタ周辺の被害は軽微で済んでいる。その幸運と、阪急ブレーブスの存在が、戦後の復興期において西宮北口駅のターミナル性を高めることにつながったことは間違いないだろう。広島カープが広島の人々にとって復興の象徴だったのと同じように、ブレーブスも西宮においては復興のシンボルだったのである。