登山と嘘は、相性がいい。「疑惑の登山」。世界の登山史の中には、そんな風に呼ばれる記録が散見される。なぜか。登山には審判がいないからだ。登頂したか否かは、言ってみれば「自己申告制」だ。つまり、完全なる性善説に基づいているのだ。だが、人間とは弱い生き物でもある。ときに嘘の誘惑にかられ、そして屈する。自分自身が審判であり、自分自身でルールを設定しなければならない登山という行為は、フェイクが入り込む隙だらけの世界だと言ってもいい。
「山岳警察」と評されることもある山岳ライターの森山憲一氏に古今東西の「疑惑の登山」について語ってもらった。(全2回の1回目/後編に続く)
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登山史は性善説に基づいてきた
――最近になって知り、少し驚いたのですが、登山において登頂したかどうかは原則、自己申告なわけですよね。登頂を証明するためにある程度、写真を撮っておくとか、山頂に物を埋めてくるとか、ルールではないにせよ、それくらいの緩やかな約束事みたいなものはあるのかなと思っていたのですが。
森山 ないですね。今でこそカメラやGPSなどの記録装置がありますが、昔はそんなものもなかった。証言に頼るにせよ、初登頂の場合は、頂上の様子を知っている人は当人しかいないわけで、こんなところだったと話しても、それをジャッジできる人がいない。基本、その人が登ってきたというのなら、それを信じる。つまり、登山史は性善説に基づいてきたわけです。それがアルピニズムであり、登山のスピリットでもあるんです。
――その話を聞くと、登山をスポーツとして括ることがありますが、やはり明確に違うんだなと思いますね。スポーツの1つの定義は、審判がいることだと思うんです。つまり、ルールがあって、それに則っているかを監視する人物がいる。ただ、登山はルールもなければ、審判もいない。でも、みんな証拠写真ぐらいは撮ってくるものではないんですか。
森山 それも、そんなに簡単なことではないんですよ。悪天候でカメラを取り出すことさえ困難な場合もあるだろうし、途中で落っことしてしまったり、壊れてしまうこともある。厳しい登山になると、撮りたくても撮れないケースは珍しくないと思うんです。ただ一度、こんなことはありました。ポーランドのイェジ・ククチカという登山家が1981年、ヒマラヤのマカルー(8463m)という山を新ルートから単独で登ったとき、嘘じゃないかと疑われたことがあるんです。ただ、山頂にテントウムシのおもちゃを置いてきたと主張していたので、翌年、別の登山家が山頂でそれを発見し、身の潔白を証明できたんです。