登山と嘘は、相性がいい。「疑惑の登山」。世界の登山史の中には、そんな風に呼ばれる記録が散見される。なぜか。登山には審判がいないからだ。登頂したか否かは、言ってみれば「自己申告制」だ。つまり、完全なる性善説に基づいているのだ。だが、人間とは弱い生き物でもある。ときに嘘の誘惑にかられ、そして屈する。自分自身が審判であり、自分自身でルールを設定しなければならない登山という行為は、フェイクが入り込む隙だらけの世界だと言ってもいい。
「山岳警察」と評されることもある山岳ライターの森山憲一氏に古今東西の「疑惑の登山」、そして「嘘の質が違った」と評する故・栗城史多についても語ってもらった。(全2回の2回目/前編から続く)
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栗城さんがついた“悪意のない嘘”
――登山史的レベルの登山家ではありませんでしたが、疑惑ということで言うと、2018年にエベレストで滑落死した栗城史多さんがいます。彼は知名度という点では、他の追随を許さなかった。森山さんのブログで、単独と言いながら厳密な意味では単独じゃないとか、真の山頂を踏んでいなかったのではないかという疑惑もあるけれども、個人的にはそれはどうでもいいんだ、と。
それよりも〈どうしても看過できない嘘は、彼は本当は登るつもりがないのに、「登頂チャレンジ」を謳っているところです〉と書いていて深く納得したんです。つまり、彼が掲げていた目標が著しく実力と見合っていなかった。それは嘘をついていることと同義だと。
森山 そう書いたときは、僕はそう思っていたんです。でもその後、ちょっと考えが変わりました。いろいろな人から聞いた話を総合すると、栗城さんは本気で登れると考えていたようです。つまり、栗城さんの場合は、端から見たら嘘に見えても、本人は嘘をついているつもりはなかった。できるものだと信じ込んでいたのだと思います。それに周りの人間が勝手に惑わされたり、騙されたりしちゃったんですけど、当人に悪気はなかったんじゃないでしょうか。普通の人間には理解し難い話なんですけど。
――悪意のない嘘というのは、手強いですよね。
森山 いちばん手強いです。自分は正しいと信じ込んでいるわけですからね。
――森山さんは栗城さんにインタビューしたことがあるんですよね。
森山 そのときも「なんで森山さんはわかってくれないんですかね」という感じだったんです。こちらとしては「それはわからないよ」と思うばかりでした。宗教にはまり込んじゃっている人がとんでもない話を信じてしまって、それを第三者が翻意させるのって本当に難しいじゃないですか。それと同じことだと思います。