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 東日は1日に第2号外も出しており、そこには各地の被害状況などが掲載された。

1.電信、電話、汽車、電車などの交通、通信ことごとく停止
2.東京帝大地震学教室が午後1時に正式発表。第1号外の内容以外に(1)最初は上下動、次に著しい水平動に変わり、激震が連続的に十数回にわたって南の方向に向かった(2)教室創設以来初の激震で、安政の大地震に次ぐ規模――とした
3.皇居内も建物の壁が崩落し、二重橋正門など全部の門が傾くなど被害がひどいが、死傷者はない。東宮(皇太子=のちの昭和天皇)も無事避難した

記者のルポには…「逃げ遅れた男女が鮮血にまみれて死んでいる」

 第2号外には「凄惨の市中を過ぐる記 萬(万)世橋より丸の内まで」が見出しの「午後1時半記」という記者のルポも載っている。冒頭を見ると――。

 記者は出勤の途中で、省線電車が万世橋駅に達した時、電車が大きく動揺し、危うく30尺(約9メートル)の高所から転落しようとしたが、辛うじて停車。架線は切れてしまった。駅前の広場に下りると、廣瀬中佐の銅像が中天に泳いでいる。付近の建物はほとんど半分つぶれており、柳原の古着屋はほぼ全部倒れ、逃げ遅れた男女が鮮血にまみれて死んでいる。小川町沿道の商店は全部屋根がはがれ、レンガ塀の下に1人の男が死んでいる。町民は全部道路に出て不安におののいている。この時、神田千代田町付近から出火したらしく、ほかにも出火があるとみえて、空は全く黒煙に閉ざされている。

 省線は現JR。万世橋駅は現在廃止されているが、駅前に日露戦争の旅順港閉塞作戦の「軍神」廣瀬武夫・中佐と杉野孫七・兵曹長の銅像があるのが有名だった。3紙以外の新聞の社屋は1日夕方から2日午前にかけて、震災に伴う火災で焼失。中で時事新報は2日、社屋焼失前に号外を出した=『大正大震災記』(1923年)。中外商業新報(現日本経済新聞)も3日に謄写版印刷の号外を張りだした=『日本経済新聞八十年史』(1956年)。

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時事新報号外。実際の発行は9月2日だが、印字された日付は1日になっている

 東京朝日(東朝)は、「このうえ強震なし。安心すべし」という専門家の談話を書いたビラを数十枚作り、社員が数十台の車に分乗して各方面の現状視察と写真撮影を兼ねて行った先で要所要所に張り付けた=東京朝日新聞社『関東大震災記』(1923年)。東朝は謄写版刷りの号外も張り出した。

地震発生と同時に電話が切断、すべて不通に

 一方、同書によれば大阪朝日(大朝)は、地震発生と同時に東朝との長距離電話が切断。東朝側は「地震だ!」と叫んだというが、その声は大朝側に届かなかった。東京との直通だけでなく、名古屋経由や中央線回り、北陸線回りも電信・電話がすべて不通に。調べると、沼津(静岡県)まで通話ができ、その周辺の大まかな被害がつかめたため、その段階で第1号外を出した。

 そのせいか、大朝第1号外の見出しは「本日正午の大地震 東海道鈴川方面が震源か 一尺餘(余)りも陥没した鈴川駅」。1尺は約30センチで鈴川は現在の吉原。全体状況がつかめない中、沼津周辺までの被害が大きいのを知って、その辺りが震源と考えたのだろう。現在は、複数回の強い余震を含め「神奈川県西部から三浦半島、房総半島南部にかけてが震源域」が定説だが、震災直後の震源をめぐる報道はすさまじく迷走する。