本業のITエンジニアのかたわら、ブログ「焼きそば名店探訪録」を運営し、これまで全国1000軒以上の焼きそばを食べ歩いてきた塩崎省吾さん。『ソース焼きそばの謎』(ハヤカワ新書)では、ソース焼きそばの起源から、全国へ伝播していく過程までを、膨大な史料や証言を元に書き上げた。

 誰もがきっと一度は食べたことのある「ソース焼きそば」。だが、その起源は定かではないのだという。塩崎さんが調査を重ねると「戦前から焼きそばを提供している」というお店が、東京では浅草に集中していた。なぜ、浅草でソース焼きそばが生まれたのか? 本書より、一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/続きを読む

著者の塩崎省吾さん

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 ソース焼きそばが生まれるには、2つの条件が揃う必要がある。ひとつは「お好み焼きの成立」、もうひとつは「支那料理の大衆化」だ。 浅草は明治40年代の時点で両条件を満たしていた。ここでさらに疑問が湧く。

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なぜ浅草に「小麦粉」が普及したのか

 なぜ明治40年代の浅草に、お好み焼きと支那そばが現れたのか? 銀座や神田でもなく、横浜・大阪・神戸でもなく、なぜ浅草だったのか。

 お好み焼きと支那そば、両者には「小麦粉」が欠かせない。その「小麦粉」という必需品が、明治40年代の浅草に安価で供給されるようになったことで、お好み焼きと支那そばが普及したのではないか。そう、考えている。この節では、ソース焼きそばから一旦離れて、明治時代の小麦粉事情を解説しておきたい。

 いきなりだが質問だ。小麦粉は「ウドン粉」や「メリケン粉」と呼ばれることがある。あなたは「ウドン粉」と「メリケン粉」の違いをご存知だろうか?

 今では厳密に区別して呼び分けている人も少ないだろう。しかし本来の意味で言うと、「ウドン粉」は国内で製粉された水車挽きの小麦粉を、「メリケン粉」は機械製粉された輸入物の小麦粉を指す。

 江戸時代から日本中に普及していた小麦粉は水車挽きによるものだ。 昭和5年に刊行された『明治工業史』に、明治初頭の水車を使った製粉の様子が、抒情溢れる文体で書かれているので引用しよう。

 農家は自己栽培の小麦を刈りて俵に包み、之を馬背に著け、又は荷車に載せて近傍の水車小舎に運搬し行くを見る。而して自ら其の小麦を挽き、終日水車の音を其處に聞きつつ挽き終るを待ちて1泊し、翌日漸く終了したる時、水車使用料の代償として数を小舎主に興へ、斯くて持ち來たりし小麥を粉末として包装し、再び馬背につけて運搬し去るなり[※1]。

 長閑で実にうらやましい。しかし水車による製粉は《大なるも一昼夜百袋内外に過ぎず》(同書)と作業効率があまりよくなかった。 キメも粗く、ふすまが多く含まれていたため、色が付いていた。

 また、国内産の小麦は中間質小麦が多く、出来上がった小麦粉は現代で言う中力粉に相当した。《其の大部分は麺類の製造原料に充当せらる。故に、今猶、之を呼ぶに「ウドン粉」の称あり》(同書)とあるように、主にうどんやすいとんに利用されたため、「ウドン粉」の呼び名が付いた。