正田貞一郎は三井物産の友人を通じて、明治34年にアメリカから製粉機を輸入した。使用方法や整備などで困難もあったが、製粉機導入を境に館林製粉の小麦粉は、品質も生産力も飛躍的に向上した。 館林の「製粉ミュージアム」には、当時の製粉機が飾られている。
「とうきょうスカイツリー駅」に隠されたヒント
ところで、正田には、盟友ともいえる人物がいた。東武鉄道の経営者、根津嘉一郎だ。正田は根津についてこう語っている。
根津さんとは東武鉄道の関係ではじめて知合となった。東武鉄道の利根川の橋を架けるのに巨額の資金を要するので、なかなか出来なかったが、根津さんが苦心して調達して架橋したとも言われている。館林製粉會社がこの恩恵を受けたことは勿論であるが、館林、太田、伊勢崎方面の人々は今でも根津さんを徳としている[※9]。
根津嘉一郎は明治38年に東武鉄道の社長に就任。 路線を着実に延伸し続け、明治43年には群馬県伊勢崎駅までの全線開業に辿り着いた。東武博物館の年表などを元に、東武鉄道の延伸の過程を表にまとめてみた。
明治40年に東武鉄道が館林まで至ったタイミングに併せ、館林製粉も駅直結の新工場を造る。原材料の小麦の輸送、東京への製品輸送に、東武鉄道が大いに役立った。これ以降、原料の受け入れや製品の流通が便利な場所に工場を造ることが、館林製粉(のちの日清製粉)の経営戦略のひとつになる。その東武鉄道の東京側の終着駅は、明治35年に作られた吾妻橋駅だ。何度もの改称を経て、現在では「とうきょうスカイツリー駅」と呼ばれている。 東京スカイツリーの公式サイトでは、周辺地域の沿革について、次のように書いている。
この地域での東武の歴史は、1902年(明治35年)4月1日に、東武伊勢崎線を北千住から延伸し、「吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)」を開業したことに始まります。(中略)1910年には「浅草駅」と改称して旅客駅としても再開業しました。当時、鉄道で業平橋駅〔筆者注:当時の時点では浅草駅〕 (現とうきょうスカイツリー駅)に運び込まれた貨物は、ここで舟運に積みかえられ、北十間川から隅田川、中川を通って、広く全国に運び出されていました。(中略)その後、1931年(昭和6年)に現在の浅草駅が開業し、 「業平橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)」に改称されるまでの間、東武伊勢崎線の旅客ターミナルとして使われ、以降1993年(平成5年)に貨物取扱いが廃止されるまで物流ターミナルとしての機能を長く果たしてきました[※10]。
東武鉄道で運ばれてきた貨物は、ここで舟運に積み替えられる。つまり、明治40年当時、館林製粉の小麦粉はすべて、浅草経由で流通していたわけだ。大正2年の『帝国製粉業鑑』によれば、特約販売店も三井物産のほか、日本橋区に3軒、本所区に1軒ある。かなり遠回りしたが、ようやく小麦粉と浅草の接点が見えてきた。(続きを読む)
※1『明治工業史 第八 機械篇』202頁(1930、日本工芸会)
※2『明治工業史 第八 機械篇』209頁
※3 中尾節蔵『実用農産製造学』59頁(1907、興文社)
※4『日本ニ於ケル小麦需要供給一斑』15頁(1907、農商務省農務局)
※5『パンの明治百年史』178頁
※6『明治工業史 第八 機械篇』224頁
※7 読売新聞 平成25年6月15日群馬版「館林の小麦粉 名産の歴史」「江戸時代には、全国諸藩の大名は正月をはじめ暑中や寒中などに将軍家へさまざまな献上品を毎年贈っていた。松平清武が館林城主だった1722年(享保7年)に、幕府から季節の献上品は国中の土産に限るべしとのお達しがあり、これ以後、館林藩では3月が甘藷(かんしょ)、6月が饂飩粉(うどんこ)、12月が冬葱(ねぎ)と定められた」
※8『日清製粉株式会社史』44頁(1955、日清製粉株式会社社史編纂委員会)
※9『日清製粉株式会社史』58頁
※10 東京スカイツリー公式サイト「計画地の歴史」
しおざきしょうご/1970年生まれ。静岡県出身。ブログ「焼きそば名店探訪録」管理人。国内外1000軒以上の焼きそばを食べ歩く。テレビ、ラジオなどメディア出演多数。本業はITエンジニア。