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 関税がかけられない国は、貿易でとても不利になる。貿易相手にとっては、ボーナスステージのようなものだ。このことは、この節の終盤でもう一度出てくるので、覚えておいてほしい。

 関税自主権の回復は、富国強兵を掲げる明治政府の悲願でもあった。 諸外国と粘り強く交渉し、明治32年(1899年)に関税定率法案が施行され、ようやく輸入小麦に5%、小麦粉には10%の関税がかけられるようになった。

 その後、税額を徐々に上げ、明治38年(1905年)の日露戦争の勝利が、結果として関税自主権の完全回復をもたらした。昭和45年に刊行された『パンの明治百年史』から、小麦と小麦粉の関税率の推移を抜粋しよう[※5]。

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 明治32年に小麦は5%、小麦粉は10%だった関税率は、5年後の明治38年にはそれぞれ15%と25%まで上昇。明治44年には小麦が20%、小麦粉は34%に。こうした段階的な関税率上昇に伴い、小麦粉の輸入量は、明治36年をピークに減少していった。

 關税改正と共に、我が製粉業者は、國産小麦使用によりて得る利益大なるのみならず、假令外國小麥を輸入使用するも、尚、輸入粉と競争上有利なる立場にあり、斯くして我が機械製粉業の発達と共に、 輸入粉は到底之に對抗する能はずして我が市場より騙逐さるるに至れり。即ち輸入粉は、明治36年の輸入高560萬袋を最高記録に残して逐年減少し、(中略)、翌42年には70萬袋に激減せり[※6]。

 小麦粉の輸入減少と反比例するように、日本各地に機械式の近代的な製粉会社が現れ始める。現在、日本の小麦粉業界でシェア1位を占める日清製粉も、その時代に起業した製粉会社のひとつだ。

シェア1位を占める日清製粉の誕生

 日清製粉の前身、館林製粉は、明治33年に群馬県館林市で創業した。 館林は群馬県南東部にあり、北関東一帯の小麦産地の中央に位置する。古くから製粉業の盛んな土地で、江戸時代には、館林藩が幕府へ毎年小麦粉を献上するほどだった[※7]。

 館林製粉の創業者、正田貞一郎(ていいちろう)が製粉業に着目したのも、この土地柄が一因らしい。昭和30年に刊行された『日清製粉株式会社史』には次のように記載されている。

 たまたま上州は麦の産地で、館林附近は水車粉の盛んなところであったので、それが一つの着想となった。当時わが国でも機械製粉がポツポツ起っていた頃であり、また貞一郎の高商の同窓の福井國太郎氏が、三井物産の機械係をしていたので、この人から外国の機械の話を聞いたこともあり、もともと自分でも小麦を取扱っていた関係から製粉事業への関心が高まって来た[※8]。