本業のITエンジニアのかたわら、ブログ「焼きそば名店探訪録」を運営し、これまで全国1000軒以上の焼きそばを食べ歩いてきた塩崎省吾さん。『ソース焼きそばの謎』(ハヤカワ新書)では、ソース焼きそばの起源から、全国へ伝播していく過程までを、膨大な史料や証言を元に書き上げた。
屋台の定番であり、カップ麺の一大ジャンル。はたまたお好み焼き店のメニューにもほぼ必ず載っていて、誰もがきっと一度は食べたことのある「ソース焼きそば」。果たして、各地域にはどのようにして広がったのか? ここでは、「九州編」と記事の後半で「北海道編」を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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九州のソース焼きそばの誕生は終戦直後
私が知る限りだが、九州における、ソース焼きそばに関する最も古い証言は、「小倉発祥焼うどん」の元祖とされる「だるま堂」だ。 まずは店内に貼られていた日本経済新聞の記事を引用しよう。
北九州市小倉北区の島町食堂街 〔筆者注:原文ママ、正しくは 「鳥町食道街」は昭和の面影を残す一角。その入り口の「だるま堂」こそが小倉・焼きうどん発祥の店である。
開店は終戦直後の昭和20年。食糧難の時代に、焼きそばを作ろうと思い立つが、そば玉が手に入らず干しうどんを代わりにしたのが始まりだ。(中略)豚肉、キャベツ、玉ねぎを両手のヘラで手際良く炒(いた)める坂田さん。固めに茹 (ゆ)でた麺が放り込まれ、ソースの香ばしいにおいに包まれるや、焼きうどん(460円)の出来上がり[※1]。
昭和20年の終戦直後に、だるま堂創業者はソース焼きそばを作ろうとしたが、そば玉が手に入らず、代わりに干しうどんを使って焼うどんを作った。つまり、戦前からソース焼きそばの存在を知っていたことになる。「戦前も戦後も店舗業態のお好み焼き屋は、ソース焼きそばの存在を知識として知っていた」と私が思うのは、この「だるま堂」が根拠のひとつになっている。
この日本経済新聞の記事も含め、ほとんど語られることはないが、「だるま堂」はもともと焼うどんだけでなく、お好み焼きも提供していた。現在はリニューアルしてしまったが、私が2011年に訪問した当時は、店頭の看板の「焼うどんとお好み焼」の後半部分が白紙で隠されているのを確認できた。福岡県でお好み焼きというと、博多の「ふきや」を筆頭に、混ぜ焼きの店が主流だ。しかし、おそらく「だるま堂」は乗せ焼き、重ね焼きだった。なぜわかるのかというと、メニューにその時代の名残がある。だるま堂が「焼うどん」以外に唯一提供している「天まど」 という品の作り方だ。
小麦粉を水で溶いて薄く焼き、焼きうどんを乗せ卵を落とし、窓から見る月に見立てて名付けられた天まど(510円[※1])。