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「もし中華麺が安く手に入れば提供した」

「天まど」は、水で小麦粉を溶いた生地を鉄板に薄く広げて焼いたものを土台にする。そこに完成された焼うどんを乗せて、玉子を落とすのだ。私も「天まど」を食べた時に、初めてその作り方を知った。土台のサイズはかなり小さいが、「天まど」は明らかにお好み焼きの「天もの」、一銭洋食をルーツとしている料理だ。長田の「みずはら」や「志ば多」と同じように、中華麺をうどんで代用し、それを炒めてお好み焼きに乗せたものだ。「戦前も戦後も、店舗業態のお好み焼き屋はソース焼きそばの存在を知識として知っていた。たとえ普段は提供していなくても、もし中華麺が安く手に入れば提供した」。私がその結論に至った理由がおわかりいただけただろうか。

 だるま堂のメニューからお好み焼きが消えたのも、戦前の東京でソース焼きそばがあまりに人気なため、単独の屋台が現れた流れの再現といえる。乾麺だから廃棄も少なくて済んだことだろう。なお、前掲の日本経済新聞の記事によると、私が訪問した当時の店主の坂田チヨノさん(2019年12月没)は、だるま堂の創業者から昭和28年に店を引き継いだ。

 カウンター6席の小さな店の主は、坂田チヨノさん。御年70歳。昭和28年に仙台から店を引き継いだ[※1]。

 別のテレビ番組での情報によると、だるま堂創業者は弁野勇次郎という方だった[※2]。その創業者が戦中・戦前にもお好み焼き屋を営んでいたか、今となっては知る由もない。ただ、坂田チヨノさんは「終戦直後」「昭和20年9月」と強く仰られていたので、だるま堂としての創業時期に間違いはないだろう。 昭和20年にだるま堂が創業した時点で、ソース焼きそばという食文化は小倉にまで伝わっていたことになる。

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 その他、福岡県で注目したいのは、田川市後藤寺にあった「復興食堂」通称「フッコー」と、宮若市にある「永楽」だ。「復興食堂」は中華麺とモヤシを炒めた「もやしそば」が名物だった。現在は「己城」という店が味を受け継いでいる。「永楽」はもともと直方市須崎町で営業していた塩焼きそば専門店。 後からポン酢、柚子胡椒、醤油などをかける。どちらもソース後がけを謳っていないが、スタイルからするとソース後がけと同じ時代だろう。

 ・北九州市「だるま堂」昭和20年[※1]
 ・田川市「復興食堂」提供開始時期不明[※2]
 ・直方市「永楽」昭和24年[※3]

 大分県。もちろん挙げるべきは、昭和32年に日田市で創業した焼きそば専門店「想夫恋」(そうふれん)だ。