岩下志麻の女優人生をできるだけあますことなくインタビューさせていただくべく、改めてその出演作品を数多く観直してきた。その中で気づいたことがある。それは、岩下には「狂気」がよく似合うということだ。『五瓣の椿』『桜の森の満開の下』『卑弥呼』『心中天網島』『内海の輪』『鬼畜』『悪霊島』――、演じる役柄が常軌を逸していけば逸していくほど、放たれる輝きは妖しいまでに増す。
そして、実際にお話をうかがっていきながら知ったのは、そうした「狂気」に憑かれた人間たちを岩下は「異常な心理に陥った特別な存在」として捉えているのではなく、「ある状況下に置かれれば誰しもがそうなるであろう、必然的な帰結」と捉えて演じていることだ。そのため、本来なら感情移入もしようのないほどに振り切れた状態を演じているにもかかわらず、その芝居からは切なさや哀しさといった感情が伝わってきて、「たしかにこの流れならこうなるだろうな」と納得させられる。
今回取り上げる『魔の刻』は、その最たる作品だ。
少年・深(坂上忍)はエリートの父(神山繁)の強い期待を受けて東大を受験するも二年続けて失敗してしまう。岩下が演じるのはその母・涼子なのだが、息子を励ますために採った手段が凄まじい。
自らの身体を息子に与えて、男女として結ばれるのである。
本作は全編を通して異様な雰囲気に貫かれている。もちろん、それを作り出しているのは岩下だ。たとえば序盤の「キスして――」と誘う場面での艶めかしい声と表情をはじめ、息子を前にした時の涼子はことごとく科(しな)を作って迫ってくる。寿司屋で腕を絡め合って顔を寄せ合ったり――。一見すると「母」であることを捨て「女」として息子を誘惑しているようにも思えるが、本作が際立っているのは、そうではないということである。
その優しげな眼差しからは息子を見守る慈愛に満ちた母性が伝わるのだ。ただ、それは「尋常」と異なる。その慈愛が行き過ぎているからだ。
「恐ろしい母性愛だ」という台詞が出てくるが、岩下の芝居はまさにそれを体現していた。盲目的なまでに強い愛情が猛烈な執着へと繋がり、「狂気」として映し出される。しかも岩下はその狂気を決して異常なものではなく、あたかも「当然のこと」として演じている。そのため涼子の心情に説得力が生まれ、本来なら異常なシチュエーションにもかかわらず、一連のラブシーンからその異常性は消えて美しい抒情性が匂い立ってくる。
そして驚くことに、本作は岩下自身の企画なのだ。狂気をとことん突き詰める女優、それが岩下志麻だといえる。