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 百貨店の跡地を横目に北に向かう。アーケードが途切れたところには「新銀座」と書かれた看板を掲げた細い路地の飲食街。大牟田川を渡るとまたも古い商店街が続き、専用鉄道の下をくぐるとまたすぐにアーケードが見えてくる。

 
 

 駅としてはもう大牟田駅よりも新栄町駅のほうが近いが、この一帯も昭和の昔には商業地として栄えていたのだろう。ただ、アーケードの中の多くの店はシャッターが降りていて、駐車場に転用されている空き地もあちこちに。新栄町駅前の商店街の中にも、かつては井筒屋やダイエーといった百貨店・スーパーマーケットがあった。

20万人都市だった「大牟田」の20世紀

 百貨店が地方都市から消滅するのは、なにも大牟田に限ったことではない。だから、炭鉱うんぬんばかりが関係しているというわけでもないだろう。実際に、いまも大牟田では三井化学をはじめとする工場が操業を続けているし、駅前はそこそこの賑わいぶり。だから、まったく衰退しているというわけでもない。

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 明治時代に三池炭鉱を率い、のちに三井財閥の総帥にまで上り詰めた団琢磨は、いつまでも石炭産業が隆盛を誇るとは限らないから、新しい産業のために港を造るべしとして、三池港を築いた。

 三池港も世界遺産構成資産のひとつになっている。もちろんいまも現役で、海外から石炭を輸入して三井化学の工場などで使用しているという。炭鉱なき後のことを炭鉱全盛期を前にして考えていた団琢磨の先見の明は、そうとうなもの。このおかげで、いまも大牟田には工場がいくつも並んで工業都市として存在感を示しているといっていい。

 しかし、やはり炭鉱中心の町だったことは否定できず、1970年代頃から中心市街地の衰退がはじまった。そこに、近年の郊外への大型ショッピングモール進出が重なって、駅近くの古き良き商店街や百貨店は耐えきれなくなった。現に、大牟田の町の海の近くには巨大なイオンモールがあるし、工場群のすぐ脇にゆめタウンがあるのはさきほど見かけたとおりだ。