もともと“ふたつの村”だった「清川村」
そして、この公園からさらに県道を歩いて北に向かうと、虹の大橋という橋を渡って清川村から相模原市に移る。宮ヶ瀬湖は、清川村の北端にあるレジャースポットなのだ。
宮ヶ瀬湖は、宮ヶ瀬ダムの建設に伴って生まれた人造のダム湖だ。宮ヶ瀬ダムは治水を中心に神奈川県内の人口約90%に上水道を供給、さらには水力発電までを担う多目的ダムで、2000年に完成した。
だから歴史は比較的浅いのだが、計画のスタートは1969年に遡る。そして、清川村はこの宮ヶ瀬ダム建設と共に歴史を刻んできたといっていいほど深い因縁を持っている。
清川村は、もともとふたつの村だった。煤ヶ谷村と宮ヶ瀬村。煤ヶ谷村は、村役場や道の駅もあった中心地にあたる。いっぽうの宮ヶ瀬村は、ちょうど宮ヶ瀬湖の湖底に沈んだ“消えた村”。宮ヶ瀬村の中心集落は、その大部分がダム建設に伴って消えてしまったのだ。
1700人ほどの集落と“激動の100年”
村域の90%が山林という清川村は、煤ヶ谷村も宮ヶ瀬村も典型的な山村集落だった。田畑を耕すことのできる土地はほとんどなく、江戸時代はもとより明治に入っても主たる産業は炭焼きだ。明治の初め頃、煤ヶ谷村と宮ヶ瀬村をあわせた人口は1700人程度。生産された薪炭は厚木をはじめとする麓の町へ運ばれた。
1926年には乗合バスが登場して、人の往来はバスに頼るようになった。いまの神奈川中央交通の路線バスのルーツといっていい。そして、戦後の1956年に煤ヶ谷村と宮ヶ瀬村が合併して清川村が誕生する。“清川”の村名はこのときに生まれたものだ。清川村発足時の人口は約3000人。いまとほとんど変わっていない。
その後の清川村は、新たな住宅地の造成や緑茶栽培などの産業振興に取り組みつつ、山間の村らしく歩んでいた。そんなところに現れたのが、宮ヶ瀬ダム建設計画だ。