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平塚が刻んできた「湘南は“海ばかり”ではない」という歴史

 工業都市としての平塚は、1905年に日本火薬製造の工場ができてから。この工場は1919年に海軍火薬廠となった。これが禍して戦時中には空襲被害を受けて中心市街地の大半が失われている。いまの平塚の名物にして、関東三大七夕祭りのひとつに数えられる「湘南ひらつか七夕まつり」は、戦後復興を願って1950年に開催された復興まつりがルーツだという。

 また、戦後の復興に資するため、1950年には駅南側の相模川沿いに平塚競輪場がオープンする。公営ギャンブルによる“上がり”を復興資金に充てようと目論んだのだろう。

 海軍の火薬廠跡は横浜ゴムの工場になり、戦後の平塚は工業都市としての側面を強めてゆく。工場で働く労働者たちの町と平塚競輪場はなかなか親和性が高かったに違いない。駅前の繁華街、そしてしんしく横丁の歓楽街も、こうした背景のもと生まれたという(つまり宿場の遊郭とは無関係)。

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 茅ケ崎や藤沢が、海水浴場や江の島を中心とした“海の町”として存在感を高めているのに対して、平塚は明らかにそれと異なる歴史を刻んできたといっていい。どことなく地方都市感がただよう駅前風景は、そうした歴史がゆえなのだろう。

 40万都市の藤沢市に負けないくらいに賑やかな市街地が生まれているのもそうだ。湘南は、海ばかりでは成り立たない。平塚は、そんなことを教えてくれる湘南の中心地なのかもしれない。あ、もちろん平塚にも海はありますが……。

写真=鼠入昌史

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