「いいじゃないか。身のまわりの世話をする侍女をひとりふやすようなものさ」
とうそぶいてうけつけない。式部のテクニックにとろかされて、彼女なしではいられなくなったプリンスの狂態言行録である。かくて式部は親王家に迎えられるのだが、これも異例中の異例であって、天下の耳目を聳(そばだ)てることになった。
和泉式部と敦道親王との灼熱(しゃくねつ)の恋も、しかし長つづきはしなかった。彼女の愛のほむらに焼きころされるように、親王もまもなく世を去ってしまうからだ。この親王との恋のいきさつを書いたのが「和泉式部日記」である。
やがて彼女は、紫式部などといっしょに、ときの天皇一条帝の后、彰子に仕えるようになる。和泉式部という名は、実は宮仕えするようになってからの名前で、「和泉」とは、先夫道貞が和泉守だったことによる(彼女にかぎらず王朝の女性の名は、親族の職名や官名によるものが多く、本名はほとんどわからない)。こうなっても彼女のプレイマダムぶりはおさまらなかったらしく、「うかれ女め」などといわれていたようだ。
安定した「県知事」と再婚したが…
しかし、このプレイマダムも、年をとってくると、次第に「安定」にあこがれ始める。そこで目をつけたのが、丹後守、藤原保昌だ。彼女の第一の夫、道貞が和泉守だったことを思いだしていただきたい。国の守というのは親王や上流貴族にくらべれば、地位は低いが、経済的にはなかなかゆたかである。中流官吏の娘の落着く先としては、このあたりがいいところだとさとったのだろう。
もっともこの保昌との間も決して円満ではなかった。任地の丹後にいっしょに下ったものの、夫はまた都に行ってしまってなかなか帰らず、ヒステリーを起こしている歌もある。
しまいにはどうやら別れてしまった様子だし、先夫道貞との間に生まれた娘の小式部にも先だたれてさびしい晩年だったらしい。
彼女については、深い仏教思想の持ち主だったから、現代のプレイガールたちとは雲泥の差があるという考え方もある。しかし、私はそうは思わない。むしろ、意外と現代の若い人たちとも共通性があるように思われる。